2017/2/6-11
- 2017.02.06
- ディボーションの友
2017/2/6(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 1: 35-42 賛美 新聖歌 266
主イエスに出会ってイエスこそメシアであると信じたアンデレは兄弟シモンに会って「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と証しし、シモンをイエスのところに連れて行った。後に使徒の第一人者として福音宣教の先頭に立ち、主の御体なる教会の形成と成長に重要な役割を担った使徒ペトロは、このようにして主のもとに導かれたのである。私たちも、自分は小さく取るに足りない者と思われるかもしれないが、主を証しする者となろう。その証を主は祝福し、用いて大いなる栄光をあらわしてくださる。
2017/2/7(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書63:15-19 賛美 新聖歌232
主のとりなしを求めて祈りの声を上げ続けている。15節では「輝かしく聖なる宮から御覧ください。」と願うが、そこから見える地には輝かしい宮とは対照的な現状であり、神の情熱と御業が示されていない。歴史を振り返って過去に神の民として祝福され、土地を持っていた時代から比べて今は何も持たない民となっている。この様に、輝かしく聖なる宮とは対照的な現状が15節の後半以下では描かれている。どれほど苦しい現状の中にあっても民が頼ることができるのはただ神だけである。そして苦しい現状において民が願うことができるのは「どうか天を裂いて降ってきてください。」という叫びだけである。
苦境に追いやられた時、たとえそれが自分の罪の結果であるとしても、やはりそこに介入し、助けてくださいと頼り、願い求めることができるのはただ神だけである。私たちの必要を悔い改めと共に神に打ち明け、神の介入による解放を求めよう。
2017/2/8(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 1:35-42 賛美 新聖歌 209
アンデレに連れられて近づいて来るシモンに向って主は「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。アンデレが主イエスに「これが私の兄弟シモンです」と紹介したのでもなく、シモンが「アンデレの兄、シモンです」と自己紹介したのでもない。同様に主は、ザアカイを知っておられ、サマリアの女を知っておられた。これは主が真の神であられることを示している。そして主は「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ 12:7)と語っておられる。また主は「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカ 12:2-3)と語っておられる。主はすべてのことを知っておられ、私たちは何事も主に隠すことはできない。それ故、何時も主の前に真実とまことをもって歩もう。兄弟に悪事を謀り、露見しないとしても主の前には明らかであり、裁きを免れることはできないことをわきまえよう。
2017/2/9(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書64:1-4 賛美 新聖歌373
神に助けを叫び求める祈りの中で、続いて神の力を認め、唯一彼らを救うことがおできになる神に助けを叫び求める。祈りをささげる者は神の偉大な御力を知っている。神の御名に全地が震えおののくのである。期待を越える恐るべき業をなさる神である。そして待つ者に計らってくださる神である。そしてただ神だけが唯一の支配者である。そしてそのことがおできになる神はその支配をこの地で行われるため民が神の道を心に留めることを求め、待っておられる。神の正しい支配の回復を望む者は、そのことを神がなさらないと嘆き、神を責めるのではなく、神が憤られたのは私が罪を犯したからであると認め、ただ神だけが救いであることを告白しなければならない(64:4)
多くの求めを私たちは神に突きつける。大胆に求めることは許されている。しかし大胆に神に求めるときには同時に私たちの心を確かめ、悔い改めるべき罪を悔い改めてへりくだって神の御前に出よう。
2017/2/10(金) 担当 高谷清師 詩編30:1-4 賛美 新聖歌 108
この詩の表題を新共同訳は「賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩」とし、新改訳は「ダビデの賛歌。家をささげる歌」としている。カルヴァンは「註解者たちは、この詩篇が果たしてダビデによって書かれたのかどうか、それともユダヤ人がバビロニヤ捕囚から帰国したのち、預言者のだれかがこれを執筆したのではないか、疑念を抱いている。彼らはこの家という語を、神殿と解釈するからである。しかしこのはしがきが、明白にダビデの名を帯びている以上、ここで語られているのはダビデの私宅のことであると考える方が、より真実らしく思われる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P351新教出版社1970)と述べて作者をダビデとしている。また『また,ここで「癒す」という意味に解釈されているへブル語を拠り所として、註解者たちはこれを病に限定して来た。しかし、この語はときには「再建する」、「回復させる」という意味となり、聖書においても、祭檀や家を再建し、新しくすることに言及するときに用いられているので、ここでは一般的に何かの「救出」と解釈しても、少しも不合理ではない。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P353新教出版社1970)と述べている。それらのことから、ダビデが直面した多くの死の危機に際して神によって助け出されたことに関する感謝の歌と考えることが出来る。ダビデはその生涯において多くの死に直面するような危機に直面したが、神によって救出された、いわば新しく命を得させられたのである。それ故、彼は神を崇め、賛美するのである。私たちも罪に死んでいた者を、ご自身の血潮をもって救い、命を得させてくださった主を崇め、賛美しょう。
2017/2/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 新聖歌 359
神への献げ物は献げた分量の多少によって判断されるものではない。人にはそれぞれ能力の違いがあり、貧富の差がある。貧しいが故に多く献げられなくても、それを悲しんだり卑下したりする必要はない。また、富んでいるが故に多く献げたとしてもそれによって高慢になってはならない。貧しいが故に多く献げられない人を見下してはならない。大切なことは自分に与えられているものを信仰により、神のみ旨によって献げることである。主は献げ物の多少ではなく、心の思いを見ておられるのです。”,,884″
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