2017/2/20-25

2017/2/20(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:45-49 賛美 新聖歌 434
 主イエスから「わたしに従いなさい」と言われ、従って行ったフィリポはその後すぐにナタナエルに出会い、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と、主を証ししている。これについてカルヴァンは「ピリポのうちには、まだごくわずかな信仰しかなかったことがわかる。それというのも、キリストのことを語りながら、わずか数語にして、すでにきわめて重大なあやまりをふたつも犯しているからである。かれはキリストをヨセフの子としている。また、その誕生の地をナザレとしている。これは,ふたつともにまちがっていることである。しかし、かれは、その兄弟のためをはかり、キリストを顕示しようという純粋な欲望に駆られているので、神は、かれのうちにあるその一途な熱心さを賞讃しており、また、結果もよい結果におわっている。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書上P56−57新教出版社1967)と述べている。またジョン・C・ライルはロロックの言葉を引用して「虚飾や虚栄のために、キリストについて雄弁に多くのことを語る者と、キリストについてとつとつと片言をしゃべる程度であっても、誠実に真心から行い、自分の前に神の栄光と人の救いのみを目標として置く者とでは、どちらを取るべきであろうか。私は後者でなければならないと信じる」(ライル福音書講解ヨハネ1P127−128聖書図書刊行会1987)と述べている。私たちはキリストについて十分な知識を持っていないとしても、救いの恵みを証しする者となろう。不十分なところは主が満たしてくださるからである。

2017/2/21(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書65:1-7 賛美 新聖歌166
 64章での民の嘆きに対する神のこの答えの冒頭では厳しい現実が突きつけられる。神は神を拒み、助けを求めない民も含めてすべての人から見出されるものとなられた。神は民にチャンスを与えてくださったのだ。それにもかかわらず神を求めない民は(3−4節)異教の神々を礼拝し、いけにえをささげつづけた。イスラエルの民の中において神を拒む者に対して、神はこのように罪を指摘した上で「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな/わたしはお前にとってあまりに清い(5節)」といわれた。神の裁きである。しかし民全体が裁かれたのではなかった。当然、人々はなぜ悪人が栄えるのか、神はどこに居られるのかと問うた。当時のイスラエルでは悪人が繁栄し、義人が苦しむという混乱した状況であった。一方、天において、神のもとには人々が行った悪が書き記されていた(6節)。人々の疑問に対して神は、悪が書き記された書に従って悪人を裁かれるという。世の生活では栄えている悪人も神の前ではその行いに応じて報われるのである。
 神は世の人々の行いと心をご存知であり、正しく裁かれるのである。

2017/2/22(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:45-49  賛美 新聖歌 251
 フィリポの「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」という言葉を聞いたナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った。当時、ナザレはユダヤの辺境の地であり、人々からは重要視されていない町であったからである。それに対してフィリポは、「来て、見なさい」と答えている。この言葉に従ってイエスの居られるところに進んで行ったナタナエルに対してイエスが語りかけ、ご自身を顕された。私たちが主を伝えようとするとき、多くの知識により、多くの言葉を弄して語る必要はない。「来て、見なさい」と、主のもとに導くことが大切である、人々が主のもとに来るとき、主ご自身が働いてくださるからである。

2017/2/23(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書65:8-16 賛美 新聖歌312
 人々はぶどうの房には祝福があるからすべてを損なうなと言うとおり、神もそのぶどうのふさのすべてを損なうことはしないといわれる(8節)。後にイエスは毒麦のたとえを用いて語られた(マタイ13:24-30)。そこでは毒麦と良い麦を見分けるために麦が実るまでは毒麦もそのままにしておいて、収穫のときに選別するように語られている。同様にイスラエルも実ったぶどうすべてが祝福となるのではなく、そこから主の僕と、主に背く者が分けられると言われる。主を捨てた者たちは裁かれ(65:11-12)、主の僕らは糧を得ることが(65:12-13)はっきりと語られているのである。イスラエル全体に同じ裁きを下されるのではない。神は従う者を救われるのである。そして彼らの道しるべは、民に対して語り続ける預言者の言葉である。
 常に神を認め、神に従う、主の僕として歩もう。

2017/2/24(金) 担当 高谷清師  詩編30: 5-6 賛美 新聖歌 486
 ダビデは「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」と述べている。ヨブはサタンによって厳しい災厄に見舞われたが、神はサタンにヨブの命を奪うことを許さず、その災厄を通してヨブの信仰を純化し、以前に倍する祝福を与えられた。パウロはコリント教会の肉欲におぼれる不道徳な人々に対して「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」(?コリ5:5)と述べ、更に「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(?コリ4:8-10)と述べている。試練や艱難は私たちを死に至らせるためではなく、私たちを成長させ、更に大いなる祝福に与らせるためであり、一時、泣きながら夜を過ごすとしても、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださるためである。今、試練に苦しむ兄弟姉妹方、愛なる主を見上げ、雄々しく歩もう。

2017/2/25(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ21:12-13  新聖歌190
 イエスが神殿の境内に入って行かれると両替人や鳩を売る者たちが我がもの顔に売り買いしている姿が目に飛び込んできました。すると主は彼らを追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒し、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言われました。
 神殿は神の臨在なさる聖なる場所であり、祈り、礼拝をする所です。決して肉の欲を追求する所ではありません。今日の教会もまた、祈りと礼拝の場所です。私たちは教会において自分の思いではなく、神の御心を求めて従う生活をしましょう。”,,936″