2017/3/6-11

2017/3/6(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:45-49 賛美 新聖歌 225
 イエスは一面識もないナタナエルがご自分に近づいて来るのを見て「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われたのを聞いたナタナエルが「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問うのに対してイエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。これによってナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白する。これに対してイエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」と言い、更に「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われた。マルコは「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マコ 15:37-38)と記している。アダムの罪によって閉ざされた神への門はキリストによって開かれたのである。

2017/3/7(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書66:1-4 賛美 新聖歌206
 将来の回復と平和の約束からイスラエルの民の現実へと引き戻す預言である。イスラエル周辺の異邦人たちは、神々は人間の労働や贈り物に依存していると考えていたので、神々を満足させるために神殿を建てていけにえをささげ、神々の食と住を提供した。これが彼らの考える礼拝であった。しかし天地万物は神のものであって、神が人間の作ったものによって存在するのではなく、神によってすべてが存在すると神は言われる。神殿や犠牲の動物が神への礼拝ではない。さらに神は「これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。」と言われる。これは詩編51編を思い起こさせるが、神に受け入れられる礼拝は形式的な礼拝や規定に沿ったささげものではなく、礼拝する者の砕かれた心である。
 私たちは砕かれた心で真の、主に受け入れられる礼拝を献げよう。

2017/3/8(水) 担当 高谷清師  ヨハ 2:1-2  賛美 新聖歌 284
 ヨハネによる福音書2:1−12はカナでの婚礼の奇跡として広く知られている記事である。これはイエスの最初のしるしであった。ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれていたのである。このことを通して私たちはイエスが招きに応えてくださるお方であることを知るのである。ヨハネは先に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:4-5)と語った。イエスが不在の場所、それは暗闇であって、たとえ喜びの場所であっても、不安と恐れがつきまとう。それ故、私たちは苦難や悲惨の時だけではなく、喜びの時にも主イエスを招くべきである。私たちが主を招くとき、主を求めるとき、主は応え、私たちと共に居てくださるのである。

2017/3/9(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書66:5-14 賛美 聖歌 38
 形式だけのいけにえをささげ、心では真の神を軽んじて偶像礼拝にふける者たちは、彼らが神を気ままに扱ったように、彼ら自身が神から軽んじられる。反対に主の御言葉に聞き従う者は神の恵みを受ける。神が救いの御業をはじめられたら、それは遅れることなく、確実に起こる。そのときエルサレムは過去の苦しみから解放されて祝福と喜びに満たされる。神の慈しみは母がその子を慰めるようにやさしく、愛に満ちている。
 神はどれほど神に背いて罪を犯した者をも愛し、回復してくださる。それは人の心が砕かれ、悔い改め、神に立ち返って正しい礼拝を捧げるときに起るのである。救いは人間の悔い改めによって神と人間との正しい関係が回復されたときに与えられるのである。

2017/3/10(金) 担当 高谷清師  詩編30:9-11 賛美 新聖歌 266
 神が御顔を隠されるという試練に直面したダビデは、平穏の中にいた時、それが神の恵みであることを忘れて、あたかもその平穏は自分の力によるものであるかのように考え、神に栄光を帰すことを忘れた罪を自覚した。そして神の前にひざまづき、祈りをささげる「わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげあなたのまことを告げ知らせるでしょうか。」と。神の一方的な恵みによって救われ、更に、大いなる祝福に与った者の為すべきことは、その祝福を私物化して安逸をむさぶることではない。彼の為すべきことは神の恵みを証しし、その栄光を褒め称えることである。私たち、御子の尊い贖いの恵みによって救われた者の為すべきことは、未だキリストを知らず、望みなく生きる人々に救いの恵みを宣べ伝えることである。それは地上の生涯に在ってできることであって御国に召された後ではできない。パウロは「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(?コリ9: 16)と述べている。

2017/3/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17  新聖歌391
 ファリサイ派やヘロデ派の人々数人がイエスに「あなたが真実な方で・・・」と述べたうえでイエスを罠にかけるために税金について「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問しました。これに対してイエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。これを聞いた時私たちは忠誠を尽くすべきものの優先順位を考えさせられます。私たちは第一に神に対して忠誠を尽くすべきです。同時に、地上に生きる者としてこの世に対して果たすべき責務を負っています。地上の一市民として自分の属する国や社会の権威と規則に従わなければなりません。あらゆる状況の中で何に従うべきかを考え、神の御心に適う歩みをしていきましょう。”,,801″