2017/4/17-22

2017/4/17(月) 担当 高谷清師  ヨハネ3:1-3 賛美 新聖歌 233
 ヨハネによる福音書3:1-21の箇所に新共同訳聖書は「イエスとニコデモ」という見出しを付けている。ある夜、ニコデモがイエスのもとにやってきた。ニコデモについてヨハネは「ファリサイ派に属する人であり、ユダヤ人たちの議員であった」と記している。これらのことから、ニコデモはユダヤの上層階級に属する、ユダヤ人の指導的立場にある人であったことがわかる。このニコデモがイエス様に対し「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と語っている。これに対して主イエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と答えておられる。これを聞いたニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と語っている。ニコデモはイエスを「神が共におられる教師」と認識していたことがわかる。そしてこのイエス様から教えを受け、自らの生活を正すことによって―行いによって―神の国にはいる者になると考えていたのである。それに対してイエスは神の国の民となるのは世の生活の延長上にあるのではなく、新しい誕生によることを教えられた。

2017/4/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:1-3  賛美 新聖歌325
 召命を受けたエレミヤが口を開くと、最初に語り始めるのはイスラエルに対する罪の指摘である。エレミヤ書ではこの罪の指摘が何章にもわたって語られる。これを始めるにあたり、主がエレミヤを通して語られるのは、かつてイスラエルが神に従順であった両者の関係の歴史である。「イスラエルは主にささげられたもの/収穫の初穂であった」(2:3)と記されている様に、彼らは完全に神にささげられた民であった。神の花嫁であったイスラエルは―この表現はホセア書2:21-22でも用いられているが―結婚の譬えを用いて、彼らが主との契約関係にあることを示している。契約は両者がそれを守ることによって成り立つ。この関係が成立した当初、イスラエルは神に従順であったことがまず語られる。この従順のゆえにイスラエルと神は直接的な関係を持つことができた。
 先日イースターで祝った十字架と復活の業において和解が与えられ、神との関係に入れられた私たちは、このイスラエルの最初の時代のように神に従順だろうか?「昔は従順であったが・・・」と神から言われることのないよう、日々神に従う信仰を新たにしていこう。

2017/4/19(水) 担当 高谷清師  ヨハネ2:5-9 賛美 新聖歌 135
 イエス様の言葉に当惑したニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と語る。これを聞かれた主は「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と教えられた。「肉から生まれたもの」は生まれながらの人間である。彼は修養・学び・等、自己努力によって世的に立派な人になることが出来る。しかしそれによって神の国に入ることはできない。神の国に入ることができるのは霊から生まれた者即ち、自らを聖霊に空け渡し、聖霊によって新しく生まれた者である。自らの力ではなく、聖霊によって生きる者となろう。

2017/4/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:1-3  賛美 新聖歌165
 再びこの箇所を読みたい。神にささげられた、特別な関係に入れられた者は、神の守りの中に置かれている。3節では神にとって「初穂」として特別なイスラエルを攻撃した者は皆罰を受けたと言われる。神が聖なる者として選び出した民に触れる権利は第三者には与えられていない(レビ23:10-)。神は御自分に属する者を完全に守られる。実際にイスラエルの荒野での歴史を見るとアマレク人、カナン人、ペリシテ人など、彼らに対して攻撃をかけた民はすべて神の裁きによって倒れた。
 花嫁時代に従順であったイスラエルという言葉は過去形で記されているとおり、エレミヤの時代にはその従順が失われたことを示している。民は神に背いたにもかかわらず、神は特別に選び分けたイスラエルを、誰にも触れさせないよう守られた。ここに民の不従順と神の忠実という対照的な姿を見る。私たちも不完全な存在であるが、神に選び分かたれた者として神に倣いたい。そして神に従順であり続けたい。聖霊の助けによって忠実であり続けられるよう、願い求めよう。

2017/4/21(金) 担当 高谷清師  詩編31:18-19 賛美 新聖歌 209
 悪意をもって仕掛けられた、隠された網に落ち、苦境に立たされたダビデは、そのことについて弁明し、真実を訴えようとしたことであろう。しかし、悪意を持つ者―敵―は巧妙な言説によって人々を惑わし、それを信じた隣人は激しく嘲り、親しい人々もダビデを見て恐れを抱き、外で会えば避けて通るようになった。そして人心はダビデを死者のように葬り去り、壊れた器と見なすようになった。ダビデの言葉に耳をかす者は無い。このような状況下でダビデは祈る。「主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。偽って語る唇を封じてください/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。」と。私たちはいかなる時にも他者をさばいてはならない。正しく歩もうとする者を迫害する者についても執り成しが大切である。それでも、改めない者に対して神の裁きがあることを信じることは大切である。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。裁きと復讐は神に委ねて、愛によって歩もう。

2017/4/22(土) 担当 高谷由紀子師  ヨハ 21:20-23  新聖歌 325
 イエスが死者の中から復活された後弟子たちに現れたのはこれで三度目であった。この時弟子たちは不信仰に陥り、不安で孤独な毎日を送っていました。よみがえられた主はぺトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。ぺトロは共に主に仕えてきたヨハネのことが気になり「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いました。主は答えて「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。
 私たちは信仰生活を送っていく中で他の人のことが気になります。この人はなぜ集会を休むのか、あの人はなぜ奉仕をしないのか・・・と。しかし主は「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われます。クリスチャンが主に従うのは周りの人々の態度に関係なく、自分と主との関係において全身全霊をもって従うのです。”,,772″