2017/6/26-7/1

2017/6/26(月) 担当 高谷清師  ヨハネ4:20-24 賛美 聖歌 181
 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と告白した女は、真の神との出会いを求めて「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と問う。これに対して主は「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と語られる。更に「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と語られる。「まことの礼拝をする者たち」とはユダヤ人かサマリア人か異邦人かを問わず、性別を問わず、真理であるイエスを通して礼拝する者である。父なる神は、御子を遣わすことによってそのような礼拝をする者を求めておられるのである。

2017/6/27(火) 担当 ラウジー満世師  エレミヤ書5:7-11  賛美 新聖歌178
 なぜ神はイスラエルを赦せるだろうか?という問いに始まり、さらに9節では神が甚だしい罪を罰せずにいられようか?と重ねて問われる。民の側では、この最初の問いかけが祭儀において使われるときのように、今なお罪が赦されると期待していた。しかし神は度重なる姦淫と不道徳、さらにこれらの行動が行われる偶像礼拝という現実において、もはや赦しや罰の回避という選択肢はあり得ないと結論付けられる。10節ではイスラエルが主のものではないとまで断言されている。
 罪を犯し続けながらその自覚がないのか、あるいは自分たちが度重なる罪によって神を捨ててもなお赦されると神を侮っているのか、いずれにしてもこの民には真摯な姿が全く見られない。この様な無感覚に陥ることがないよう、日々御言葉によって導かれ、聖霊の導きによって正しく歩みたい。

2017/6/28(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 4:20-24 賛美 新聖歌 399
 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と語られる。霊は人に命を吹き込み、人を生かすお方である。「まことの礼拝をする者」は神の霊によって生かされた者であり、新しく生まれた者である。神の霊によって新しく生まれた者は、神のことばをその命の基盤とする。その人は神の御心を100%自分の心として歩む人である。そのような信仰者にとって祈りは賛美である。ここに新しい次元の信仰者の姿を見る。神が求めておられるのはこのような信仰者である。

2017/6/29(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書5:12-17  賛美 新聖歌297
 神の審判を告げられている民が発した驚くべき言葉が12節から13節に記されている。「主が行動を起こされるわけがない。本気で私たちに災いなど望むと考えているのか」とも言い換えられるような発言である。この言葉には神に対する怖れも敬虔も、微塵も見られない。神に頼らずとも何となく国と生活は立ち行き、差し迫った必要と助けを求めない日々が続いた結果、民はこのような傲慢で無神経なものになってしまった。それに対して神はついにご自身の力を示されると語られる。神が裁きとしてもたらす国の兵士たちは「食い尽くす」程に徹底的に滅ぼすと繰り返して語ることによって、ご自身を示しておられる。
 穏やかな生活の中で神を侮るような状態に陥ってしまってはいないだろうか。神が語られるとき、背後には神の権威があり、力がある。その神が真剣に御心に適う歩みを求めておられるのである。

2017/6/30(金) 担当 高谷清師  詩編33:5 賛美 新聖歌 236
 続いてダビデは「主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。」と詠う。この「主は恵みの業と裁きを愛し」と訳された箇所を口語訳聖書と新改訳聖書は「主は正義と公正を愛される。」と訳している。聖書は一貫して神が義なる方であることを記している。同時に聖書は神は愛のお方であることを述べている。罪人なる人間は神の義に従えば滅びるほかない存在である。しかし、神の愛は罪人の一人たりとも滅びることを望まれない。そこに驚くべき神の御業があらわされた。パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:17)と述べている。実に、神は罪無き独り子を十字架につけることによって罪びとのすべての罪を裁き、信じるすべての人に罪の赦しを与えてくださったのである。この神の恵みは今、全地に満ちている。この神の恵みを厳粛に受け止めなければならない。パウロは「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(ロマ 11: 22)と述べている。

2017/7/1(土)担当 高谷由紀子師 マルコ5:18-20  賛美 新聖歌359
イエスが悪霊に取りつかれていた人を解放された。彼はイエスと一緒に行きたいとしきりに願ったが、イエスはそれを許されず、自分の家に帰って身内に主の憐れみと御業を全て伝えるように言われた。主イエスは、御業によって解放されて救われたことこの人が証しをするために日々の生活と社会の中へと戻された。彼が家庭において神の恵みと憐れみとを示すことを望まれたのでした。この男は主の言葉に従って帰って行って証をしたので主の御業はますます広まりました。キリスト者にとっては自分の家庭や生きる場が証しの場です。ここに真の主の弟子の生き方があるのです。”,,711″