2017/9/11-16
- 2017.09.11
- ディボーションの友
2017/9/11(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:37-38 賛美 聖歌 273
イエスを証しされるお方はイエスをお遣わしになった父である。イエスは「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。」と語られる。神はみ使いたちや預言者によってたびたびユダヤ人たちに語られた。しかし主は「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」と言われる。それは「父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」と言われる。ヘブル人への手紙の記者は「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブ 4:2)と述べている。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:12)と述べている。神のことばは、信仰をもって受け入れる時にのみ、生きて働き、命を得させる。
2017/9/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書8:14-23 賛美 新聖歌250
神に背き続けて最終的に神の裁きを受ける民の嘆きと苦しみが述べられている。今この民が直面している現実に希望はない。神に選ばれた民と言えども、神に背いて罪を犯し続けるときに残されているのは痛みと苦しみである。北から迫り来る敵によって国が滅ぼされる。その敵を自力で押しとどめようとしても全く無駄である。この渦中、人々はなおも刈り入れの季節が来れば神が実りをもたらして救ってくれるだろうという身勝手な希望を持ち続ける。しかしそこには救いがない。残るのは裁きであり、裁きの中に神が居られるという現実である。
逃れられない現実の中で、民はなお悔い改めることなく身勝手な救いの希望にすがり続ける。どうしてここまで神を侮るのだろうか。それは選民意識による高慢と甘えのためではないだろうか。同じ間違いを犯すことがないよう、神との関係は日々従順に歩むことと、神に背いてしまった時の心からの悔い改めによって私たちは恵みの中で生かされていることを覚えよう。
2017/9/13(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 5:39-40 賛美 新聖歌 316
主は「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」と語られる。パウロは「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」(ロマ 2:17-20)と述べている。ユダヤ人たちは律法を誇りとし、熱心に律法を研究し、学んだ。しかし永遠の命に至ることはできなかった。これについてパウロは「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」(ロマ 9:30-32)と述べている。主は「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と教えておられる。永遠の命は主イエスにあり、聖書は主イエスを証しするものである。聖書を、信仰をもって受け入れ、聖霊の導きの中で学ぶとき、永遠の命に至ることができるのである。
2017/9/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書9:1-8 賛美 新聖歌392
神の裁きは続き、その中で続く民の苦しみは変わらない。ここでは裁きを受けている民の状況を客観的に描写している。彼らは互いに裏切り、最も近い関係にある家族でさえ互いに信用するなと警告されるほどに偽りに満ちている。互いに信用できず、疑心暗鬼になるような社会で生活することは耐え難い苦痛である。エレミヤはこのような社会になってしまった原因が「教育」にあるという。人がまことを語らないのは「舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで悪事を働く。」(9:4)と記されている。偽りを語るよう教えられてきた人々は、偽りを語るのである。
ここに教育の責任の大きさが現われている。「教育」とは学校という形の公的機関によってだけ行われるものではない。親は生き方を通して子どもに大切な姿勢を教えている。教会生活において若いクリスチャンたちは先輩クリスチャンの振舞いから学んでいる。私たちは自ら神に従って生きる姿勢を通して人々を正しく教える者でありたい。
2017/9/15(金) 担当 高谷清師 詩編34:12-15 賛美 新聖歌 135
ダビデは信仰者に「子らよ」と呼びかける。「喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者」は主を畏れて生きることである。その第一は「舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ」ることである。ヤコブは「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(ヤコ 3:5-6)と語り、「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」(ヤコ 3:8)と述べている。そして「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」(ヤコ 3:2)と述べている。舌は肉の力によって制御することはできない。肉の力を殺し、御霊によって生きるときにのみ、舌を制することが出来るのである。今日の一日、主により頼み、御霊によって全うしょう。
2017/9/16(土)担当 高谷由紀子師 詩1:1-6 賛美 新聖歌 316
この詩篇は主の教えを愛する人と神に逆らう者について述べています。主の教えを愛する人は、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座りません。日夜主の教えを口ずさみ、主を賛美します。彼らは繁栄の道を歩みます。神に逆らう者たちは裁きに堪えず、彼らの道は滅びに至るのです。人は誰でも、どちらの道を歩むか、決断しなければなりません。聖霊の導きを求め、主にある繁栄の道を選び取る者となりましょう。”,,733″
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