2017/10/23-28

2017/10/23(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:16-21 賛美 新聖歌 323
 この記事に新共同訳聖書は「湖の上を歩く」と言う表題を掲げている。この記事はマタイによる福音書、マルコによる福音書が記しており、共に「湖の上を歩く」と言う表題が掲げられている。弟子たちはイエス様不在でカファルナウムに向って船出した。この間の事情をヨハネは「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」と言い、マタイは「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。(マタ 14:22-23)と記し、マルコは「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(マコ 6:45-46)と記している。彼らが進んでいくと、やがて強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。弟子たちはガリラヤ湖の漁師であり、ガリラヤ湖における操船ではベテランであった。しかし、イエス様不在では荒れるガリラヤ湖を進むのは困難であった。すでに老境に達し、人生の達人と言われる人々であっても、主の導きなくしては、正しい目的地に達するのは困難である。主は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 6:15)と語っておられる。常に主と共に歩もう。

2017/10/24(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書12:1-6  賛美 新聖歌346
 「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。」(12:1)―このエレミヤの言葉に私たちも共感できるのではないだろうか。生きている場所や環境に関わりなく、神に従わない人々が祝福を受けているにも関わらす、正しい人が苦しんでいる現実に神の正しい導きがあるのかと疑うような現実に直面し、納得のいく説明を神に求めることは今日でもクリスチャンが経験することではないだろうか。不条理な現実の中で神が私たちの歩みを見ておられることを信じられなくなってしまうこともある。その時に神はエレミヤに語られたように、私たちにも疑問に丁寧に答えられるのではなく、この程度の現実で疲れるなら、さらに厳しい事態に直面した時にあなたはどうするのか?と問い返され、私たちに信仰者としての覚悟を求められることもある。
 時として信仰によって歩むことは知性で理解し、納得するという願いを満たすものではないかもしれない。すべての説明を神が与えて下さらない中でも神に信頼して委ねる信仰もまた必要なのである。

2017/10/25(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:16-21  賛美 新聖歌 344
 強風と荒波に翻弄され難渋する弟子たちのもとに、イエスは湖の上を歩いて舟に近づいて来られた。それを見た弟子たちは恐れた。マタイは「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」(マタ 14:26)と記し、マルコは「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。」(マコ 6:49-50)と記している。この記事は弟子たちのイエスに対する不信仰を示している。これに気付かれたイエスは「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられた。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」のである。私たちの歩みには、そして教会の歩みには試練に遭遇し、主イエスが見えなくなる、不安と混乱を覚えることがある。しかし主がおられなくなったのではない。主は常に「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけ、導いてくださる。いかなる時にも御声に耳を傾けよう。

2017/10/26(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書12:7-13 賛美 新聖歌372
 エレミヤに代わって神が語られている。神は神の嗣業を見放して敵の手に渡されたことを認められる。神の選びの民であるイスラエルをも神は敵の手に渡し、憎まれることがあるという事実を否定なさらない。しかし、神は感情的に自分本位でこのようなことをなさるわけではない。最初に民が神を捨てて神に背いたのである。神は御自分の民を選び、愛された。その愛に応えることを望み、求められた。それにもかかわらず不誠実である民に対して何度も警告し、立ち帰るように呼びかけられた。それでも聞き従わない民に対して、神は最終的に敵の手に渡すという決断もなさるのである。
 神は神である。神を信じて従う者を深く愛してくださる。それと共に信仰を告白して神に従うと決断した者に変わりない真実と従順を求められる。主の目に適う信仰者として歩みたい。

2017/10/27(金) 担当 高谷清師  詩編35:1-3 賛美 新聖歌 216
 ダビデは無実な者を滅ぼそうとする者たちに対し、自ら報復をするのではなく、彼らへの裁きを神に祈っている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。ハマンは自分にひざまずいて敬礼することを拒むハマンとユダヤ民族を滅ぼそうと画策し、モルデカイをつるそうとして立てた柱に自らがつるされた。世には、信仰深く歩もうとする人々を故なく陥れようと画策する人々が数多く存在する。そのような人々に報復したく思うのは人の常の感情である。しかし、信仰者はこれらのすべてを主の手に委ね彼らのために祝福を祈るべきである。主は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」マタ(5:43-45)と語っておられる。

2017/10/28(土)担当 高谷由紀子師 マルコ4:26-29 聖歌322
 人は種を蒔き、水を注ぎ、雑草を取り除き、害虫を除いて世話をしますが、その種がどのようにして成長し、実を結ぶのかという科学的な仕組みも知らず、植物を成長させる能力も持っていません。しかし種は確かに成長し、実を結び、収穫の時が来ます。創造主なる神が、人が休んでいる間にも働き続け、成長させてくださっているからです。
 約束された神の国がどのように、いつ来るのかは、私たちは知りません。しかし神の国は確実に到来するのです。望みをもって神のことばである種を蒔きましょう。”,,701″