2017/10/16-21

2017/10/16(月) 担当 高谷清師 ヨハネ6:10-14 賛美 新聖歌 343
 大麦のパン五つと魚二匹とを手にされたイエスは、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に、彼らが欲しいだけ分け与えられた。人々は満腹した。人々は十分に満ち足りたのである。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。弟子たちが集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
 私たちに与えられる神の恵みは、私たちの最低限の必要を満たすだけのものではない。主は「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ 6:38)と語っておられる。私たちの必要を満たすのみならず、満ち足らせるものである。しかし、恵みが十分に注がれているからと言ってそれを浪費してはならない。神から与えられた恵みは、尊く大切に用いなければならない。

2017/10/17(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書11:1-17  賛美 新聖歌389
 ユダとエルサレムの民全員が集まって契約の確認が行われている。おそらく何らかの祝祭のために神殿に集まった人々に語り掛けられているのだろう。神がエレミヤを通して語られることは、民がエジプトから救われたときに結んだ神との契約の通りに、神に聞き従えということであった。現実には民が神から離れ、背き、不従順なのである。それでも神は民の不従順の罪を指摘したうえで、なおも従えと言われる。それでも民が従わないならば契約の言葉に従って災いを下すと言われる。
 神が災いを下し、民を裁かれるのは、民をお見捨てになったからなのだろうか。いや、むしろ民がどれほど反逆しても神はなおも契約関係を保とうとしておられるのである。人は容易く神から離れて行ってしまうが、神は民をどこまでも愛し、民との関係を保とうとしてくださる。今日も神との正しい関係の中で歩みたい。

2017/10/18(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6: 14-15  賛美 新聖歌 372
 イエスのなさったしるしを見た人々は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。神の人である預言者エリシャが、二十のパンによって百人の人々を養った出来事(列王下4:42-44参照)や、父なる神が預言者モーセを通して、荒野でエジプトから解放されたイスラエルの民を、マナによって養われたこと、そして「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。」(申命34:10)と語られていることを思い起こしたであろう。人々はイエスを連れて行って王としょうとした。このことを知られたイエスは、ひとりでまた山に退かれた。
「イエスが神からこられたお方である」との認識は正しかった。しかしイエスはこの世に属する王ではなく、天に属する王であられる。今年は宗教改革500年の記念の年である。世の権力と結び付いて腐敗した当時の教会の誤りを指摘し、神の御心に、聖書に立ち返ることを訴えたのが改革者達である。宗教が世の権力に結び付くとき、必ず腐敗する。日本の宗教の歴史を見る時、それはごく少数の例を除いて、常に権力と共にあった。ここに日本宣教の難しさがあるのではなかろうか。パウロは「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラ 5:16)と述べている。肉の欲を満たすことを求めず、御霊に導きによって歩もう。

2017/10/19(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書11:18-23  賛美 新聖歌166
 ここで突然エレミヤに対する人々の殺害計画が企てられていたことが語られる。エレミヤは民の滅びの宣言を聞いて嘆き、苦しみながら神のことばを伝え、民のために神にとりなしていた。しかし人々はエレミヤを殺そうと企てている。この計画をエレミヤが知ったのは神がエレミヤにこれを明かしてくださったからであった。神に従順に仕える者が、同胞から殺害計画を立てられるというのは何とも悲しいことである。この事態に直面してもエレミヤは自ら彼らに対抗しようとはしなかった。神にすべてをゆだねて民の復讐から守ってくださるようにと祈った。人々が彼を不当に扱う時にも、神は真実で公平で正義を行われるからである。
 私たちも受け入れがたい不当な扱いを受けるとき、加害者に対して自分の力で報復したくなる。しかしあらゆることを正しく裁き、守るべき者を守ってくださる主にゆだねたい。そこには神への信頼と従順が求められる。

2017/10/20(金) 担当 高谷清師  詩編35:1-3 賛美 新聖歌 320
 多くの翻訳が「わたしと争う者と争い」と訳しているところをカルヴァンは「わたしに反論を加える者に反論を加え」と訳し「ダビデの敵は単に公然たる戦いによって、その命を奪い取るべく、彼に向かつて突進しただけでなく、中傷と偽りの噂さによって彼を苦しめたので、ダビデはこの両方の禍からの救いを願い求める。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P424新教出版社1970)と述べている。悪の権力者の攻撃は義人の命を奪おうとする、武力による公然たる攻撃だけではなく、偽りの噂さによって陥れようとするものであった。そのような攻撃にさらされ、孤立無援の中で、ダビデが頼みとすることが出来るのは神の言葉であった。それ故、ダビデは「どうか、わたしの魂に言ってください、「お前を救おう」と。」祈る。パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ3:12)と述べている。また主は「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マコ 13:13)と語っておられる。常に神の言葉を聞きつつ歩もう。

2017/10/21(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 18:35-43 賛美 新聖歌 358
 道端に座って物乞いをしていた盲人は「ナザレのイエスのお通りだ」と知らされると「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。この叫びはイエスの耳に達しました。イエスが彼を呼んで「何をしてほしいのか。」と問われると、盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。この盲人は「イエス様なら自分の目を開けてくださる」と信じて求め、その信仰によって盲人の願いは聞き入れられたのです。私たちは疑うことなく、信仰によって歩みましょう。”,,788″