2018/3/5-10

2018/3/5(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 344
 議論を重ねていたエルサレムの人々は「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」と言っていた。これに対してイエスは「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と語られる。エルサレムの人々はイエスの出身地と地上を歩まれるイエスについて知っていた。しかしイエスが神から遣わされたお方であることと、イエスを遣わされた神を知らなかった。ぺトロにイエスが「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われた時ぺトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。これに対してイエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタ 16:17)と言われた。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ12:3)と述べている。真にイエスを知ることが出来るのは祈りと聖霊によるのである。イエスを深く知ろう。

2018/3/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:1-4 賛美 新聖歌38
 22章の最後の部分ではユダの王が罪を指摘され、最終的に神に追放されると述べられ、23章はその王に対する言葉を受けて書かれている。この冒頭の箇所では牧者が厳しく叱責されている。彼らは羊を追い散らすだけで世話をしなかった、すなわち本来の職務を果たさないどころか、真逆のことを行っているという。ここでは牧者と呼ぶことによって王個人だけではなく、王周辺にいた指導者たちをも指している。神に指導者として立てられた者には、神の御心に従って与えられた職務を遂行するという責任が伴う。しかしユダの指導者たちはそのことに失敗した。彼らは権力と名誉を満喫しながら、神の僕であることを忘れて神の御心を行うよりも、自分たちの持つ能力と資源によって民を誤った方向に導いた。その結果国を失って苦しんだのは民であった。それ故に神は民を救済されるのである。
 神によって立てられて責任を与えられているということは権力を味わい、名誉欲が満たされることを喜ぶことではない。神の御心を知り、民を正しく導くという大任を果たすために日々神の前にへりくだって神に従うということである。今日も神に仕えるリーダーたちは折に触れてこのことを思い起こさなければならない。

2018/3/7(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 166
 「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」というイエスの言葉を受けて人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。それは「イエスの時はまだ来ていなかった」からである。祭りに登って行くよう促した兄弟たちに対しイエスは「わたしの時はまだ来ていない。」(ヨハ 7: 6)と答えておられる。そして12:23では「人の子が栄光を受ける時が来た。」と語っておられる。ヨハネは「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハ 13: 1)と記している。また、ゲッセマネの園での祈りを終えられた主は「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」(マコ 14: 41)と語っておられる。「わたしの時」とはイエスが十字架に上られる時、イエスが栄光を受けられる時である。その「時」は神の支配下にあり、神の許しなしには人はイエスを捕らえることも十字架につけることもできない。それは、イエスの十字架は神の御業であることを示している。

2018/3/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:5-6 賛美 新聖歌254
 神は民が連れ帰られたときにダビデの家系から新たな王を起こされる。ユダ王国を長きにわたって治めてきた王権が主に取り除かれた後、神は民を放置されることなく、責任をもって新しい王を立てられる。たとえユダの王権が倒れたとしても、遥か昔、神がダビデに与えられた契約は破棄されていない。新しい王は正義と恵みをもって治める。ユダ王国滅亡期の王ゼデキヤの名は「主は正義」であったが、彼は主ではなくバビロンが自由に操るために据えた王であった。その王を神が取り除かれた後に、本来彼が行うはずであった正義の執行を遂行する王を神ご自身が選ばれる。この神に選ばれた王だけが本当の意味で正義と恵みの業を行い、救いをもたらすのである。
 人は神の御心からそれて自分勝手に歩み、その結果神のご計画をゆがめてしまう。神は忍耐強く人を正しい道に連れ帰ろうとされるが、人がそれを拒む時、神はご自身の権威をもって悪を行う者を排除し、ご自身の正しい計画を再度行われる。ここに正しく歩む人々の希望がある。時々の状況に迎合するのではなく、常に神の御言葉を通して神の御心を知り、正義を行おう。

2018/3/9(金) 担当 高谷清師  詩 37:3-4 賛美 新聖歌 281
 悪事を謀る者や不正を行う者が権力を掌握し、神に従う者を圧迫し、繁栄を謳歌する現実を前に心揺れる信仰者に対し詩人は「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」と語る。この箇所をフランシスコ会訳聖書は「ヤーウェにたよって善を行ない、地に住んで豊かさを楽しめ。」と訳し、「地」に『「地」は「約束の地」のこと。特に、神がご自分の民に与える恵みの象徴、また、神が民とともに住む所をさす。山上の説教では、「天の国」、「神を見る」、「神の子と呼ばれる」 などの並行語となっている』と注釈を付している。詩人は更に4節で「主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」と詠う。「主に自らをゆだねよ」と訳された箇所を口語訳は「主によって喜びをなせ」、新改訳は「主をおのれの喜びとせよ」岩波訳は「ヤハウェを喜びとせよ」フランシスコ会訳は「ヤーウェゆえに喜べ」としている。
 主イエスは「神の国はいつ来るのか」と尋ねるファリサイ派の人々に「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ 17:21)と答えておられる。人が主イエスに対する信仰によって歩むとき罪赦され、救われ、御国の民とされているのである。常に信仰によって歩もう。

2018/3/10(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ16:33 賛美 新聖歌 459
 イエスは十字架に架かり世を去る時が近づいたことを思い、世に残される弟子たちが苦難に遭うことを知って弟子たちを励まし、ご自身がすでに勝利されたことを示されました。
 キリスト者として忠実に歩もうとする者は誰でも信仰の故の苦難に直面するのです。その時私たちはイエス様を見上げましょう。イエスは私たちの罪の故に苦難に遭い、十字架に架かり、死んで葬られました。しかし神はイエスを甦らせてくださいました。イエスは最後の敵である死に勝利されたのです。それは私たち信じる者に対する勝利の保証です。如何なる苦難に遭遇する時にも勝利者であるイエス様を見上げつつ、勝利の歩みをしましょう。”,,682″