2018/4/30-5/5

2018/4/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 420
 イエスが「わたしは世の光である」と語られたことに対してファリサイ派の人々が「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と言った。律法に「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」(申 19:15)と記されていることに基づく反論であった。これに対してイエスは「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」と語られる。ファリサイ派の人々はイエスのことばを理解できない。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ 12:3)と述べている。イエスの言葉は霊である故、霊によらなければ理解できないのである。宣教も霊によらなければ不可能であり、絶えざる祈りを要するのである。

2018/5/1(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:11-15 賛美 新聖歌505
 神殿で神のことばを語ったエレミヤは捕えられ、責め立てる人々と法廷で対峙する。自らの死刑を求める人びとを目の前にして、驚くことに、エレミヤは全く動揺していない。エレミヤは神が共におられることを知っており、全くその信頼は揺るがないが故にこのような切羽詰まった状況において、冷静かつ自制心のある姿勢を貫くことができた。エレミヤ自身が神のことばを語っている確信があるからこそ、自分を殺そうとする人びとに対して『「わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。」』(26:14)と言うことができた。
 神様と親しい関係に生きるクリスチャンが主に従う時、各方面から思わぬ拒絶や妨害や攻撃を受けることがある。程度の差こそあれ、信仰者からさえ無理解を得ることすらある。この様な時に私たちは心傷つき、動揺する。しかしいかなる時にもエレミヤのように確信をもって一つのメッセージを語り続ける源は神との生き生きとした親しい関係によって支えられる。常に神の御心を、み言葉と霊の交わりを通して確かに知っていると断言できる日常のクリスチャン生活を歩みたい。

2018/5/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 201
 イエスが「わたしは世の光である。」と語られたのに対しファリサイ派の人々は「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と語り、イエスを裁いた。それについてイエスは「あなたたちは肉に従って裁く」と言われる。ファリサイ派の人々は霊的、天的な事柄を人間的次元において判断しょうとしていたのである。パウロは「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(?コリ2:10-15)と述べている。尊い神の恵みを受けた私たちは、霊によって歩もう。

2018/5/3(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:16-19 賛美 新聖歌20
 法廷でエレミヤは冷静に力強く、自分の預言は神のことばであると述べた。それに対してこれまでの経緯を踏まえてエレミヤに怒りを持っている祭司と預言者達は感情的になっている。しかしこの法廷での主張を聞いていた人々は感情的な死刑求刑に流されてはいない。本来宗教指導者であるはずの祭司と預言者の声が受け入れられないというのは何とも皮肉な話である。高官たちと民は緊迫した対立の中で、数と権威に勝る祭司と預言者達の言葉ではなく、エレミヤの言葉が神の真実であると見極めた。さらに過去の歴史から、預言者の真実な言葉を人々が受け入れた時に主が救ってくださったことをも思い起こして、神がエレミヤを通してこの時代に警告を与えておられることを聞き分けた。
 神の言葉が人を通して語られるとき、それを聞く人びともまた社会状況や損得勘定によって先入観を排除しきれない。だからこそ聞く人びとにも神の言葉を霊的に聞き分ける耳が必要とされる。それを求め続けたい。

2018/5/4(金) 担当 高谷清師 詩 37:18-19 賛美 新聖歌 209
 ダビデはここで「無垢な人の生涯を/主は知っていてくださる。」と詠う。主に逆らう者、権力ある者が絶大な権力を持ち、莫大な富を持つとしても、主は彼の腕を折られる。しかし主に従う者の生涯を主は知っていてくださり、自分のこととして深く関わってくださる(岩波訳参照)のである。彼らは神の内にその嗣業を持ち、それは永遠である。主に従う者も主に逆らう者と共に地上を歩んでいる以上、災いが降りかかる時、それと無関係ではありえない。阪神淡路大震災の時、周囲の家はすべて倒壊したが、クリスチャンの家だけは無傷であったかと言うと、そうではない。東日本大震災の時、主に従う人が被害を受けなかったかと言うとそうではない。主に逆らう者と同様に被害を受けたとしても、生ける神を信じるが故にくじけないのである。主に従う者は神の慈しみと愛を知っている故に、強い信頼をもって苦難に立ち向かうことが出来るのである。今日一日、主にあって雄々しく歩もう。

2018/5/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17 賛美 新聖歌 391
 ファリサイ派やヘロデ派の数人がイエスのところにやってきて「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」と述べたうえでイエスを陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問した。イエスは、彼らの下心を見抜いたうえで「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。
 イエスはピラトの裁きの座において「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(ヨハ 19:11)と語られた。パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ロマ 13:1)と述べている。「皇帝」もまた神立てられ、神の支配下にある権威として、皇帝に属するものは皇帝に帰するべきである。”,,584″