2018/5/21-26
- 2018.05.21
- ディボーションの友
2018/5/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:21-24 賛美 新聖歌 282
「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と言うイエスの言葉を聞いた人々は「あなたは、いったい、どなたですか」と問うた。これに対して主は「それは初めから話しているではないか。」と答えられた。ヘブルの信徒への手紙は「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブ 1:1-2)と記している。またイエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハ 5: 39)と語っておられる。神は律法と預言者によって、御子について語ってこられた。しかしユダヤ人たちはイエスが神の御子であられることを理解出来なかった。信仰によってみ言葉を読むことをしなかったからである。
2018/5/22(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書28:1-11 賛美 新聖歌302
エレミヤと平和を告げる預言者ハナンヤが直接対決する緊迫した状況である。エレミヤは主が示された通り、軛の横木と綱を首にはめてユダの国を主はバビロンに渡して、三代先に連れ帰られると預言した。同じ形式で、同じ神の名においてハナンヤはすでに奪われた神殿の祭具を二年以内に持ち帰らせると語る。この様な状況が私たちの目の前で起こることを、できるならば避けたいと願う。同じ神の名において正反対のことを告げる預言者が二人現われれば、民は混乱する。いや、混乱する前に、民にとって都合のよい方の言葉だけが耳に入り、偽預言であろうとも従ってしまうだろう。
このような状況は今の時代でも起こり得る。人々は真実ではないが、自分にとって都合のよい言葉だけを信じてしまうか、あるいは真の神の言葉を見極めることができずに混乱してしまうかもしれない。そのようなときにも、正しく神の言葉を見極めることの大切さを覚えていなければならない。
2018/5/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:25-30 賛美 聖歌 635
イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と語られる。ユダヤ人たちはイエスを捕らえ、イエスを十字架につけることを要求した。ピラトはイエスの内に罪を認めず、イエスを釈放しょうと努めたが、ユダヤ人たちは執拗にイエスを十字架につけることを要求し、それを成し遂げた。ユダヤ人たちは自分の勝利を確信し、喜んだ。しかし神はイエスをよみがえらせ、イエスは天に上り、神の右の座に着かれた。このイエスは終わりの日、再び来られて裁き主の座に着かれる。イエスの十字架はイエスへの裁きではなく、イエスを十字架につける者への裁きである。イエスを十字架につける者は、それによって自らを裁き、死に定めているのである。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と記されているとおりである。
2018/5/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書28:5-17 賛美 新聖歌427
ハナンヤの預言にエレミヤが反論している。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。」という言葉に驚くが、エレミヤ個人の思いは、やはりバビロンからの解放だったのだ。しかし彼は自分の願望ではなく、神の言葉を語る預言者なのである。それ故に彼は自分の望みに反して民の空想的な平和願望を打ちくだかなければならなかった。かつての預言者達も神の名において災いを告げてきた。さらに、本物の救済預言を見分けるためには時を置いてその言葉が実現することを確認しなければならない。エレミヤが神からの真の言葉を見分けるための土台としたのは、民全体が共有できる、客観的な昔の預言者の言葉であった。預言というものは預言者の内的な確信に基づいて神の言葉として宣言されるものであるがゆえに、客観性を見出しにくい面は確かにある。しかし皆が共有できる土台の上に立って判断する基準を敢えて持とうとするならば、それは歴史上神が用いてこられた預言者の言葉の一貫性に照らし合わせるということが一つの根拠となる。
様々な「預言」が今日でも語られる。主の名において語られるものも存在すると聞く。それが真の預言であると見分けるためには平和の実現を見ること、また聖書の中に記されている真の神の預言者の言葉と矛盾しないことを確認することが必要である。
2018/5/25(金) 担当 高谷清師 詩 37:21−22 賛美 新聖歌 247
続いてダビデは「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「われわれの生命を保存・維持し、他人に対して、互いに、慈善のわざを施すに必要なものすべてが、与えられるのは、天からでも、地からでもなく、ただ神の、恩恵と祝福とからである。もしも神が、その恵みをひとたび取り去られるならば、この世のすべての豊かさも、われわれを満足させることはないであろう」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P311新教出版社1970)と述べている。
箴言は「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは/乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは/青菜の食事で愛し合う方がよい。」(箴 15: 16-17)と述べている。ヨブはサタンの激しい試みにさらされた時、妻が「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(ヨブ 2:9)と言ったのに対し、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ 2:10)と語っている。人は、世的に、いかに豊かな環境にあっても満たされることはできない。いかに過酷な環境におかれようとも、神の恵みの中に、愛の御手の中にあるなら、満ち足り、生きる。
2018/5/26(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-4 賛美 新聖歌 316
弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは一人の子どもを呼び寄せて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われました。弟子たちは、自分が偉い人になりたい、人に認められ、賞賛されて人よりも上になりたいと思っていました。しかし主が教えられたのは、頑張って功績を残して認められなさいということではなく、子供のように自分を低くするということでした。ぺトロは「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」(?ペテ5:5)と述べています。日々、神様の前に、謙遜に歩みましょう。”,,568″
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