2019/12/16-21

 2019/12/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 222 

  イエスは「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られる。「世の誤りを明らかにする」という言葉について橋本滋男師は「第一に有罪の判定を下すこととそれに伴って処罰を加えることを意味する。この場合、聖霊は世界全体を神の法廷に引き出し、さばくわけである。それはこの世がイエスを拒否し聖霊を知ろうともしないからである(14:17)。しかも世に対するさばきは、黙示文学にあるように未来へ願望として投影されるのでなく、世が聖霊を受け入れないことにおいてすでにさばかれているのである(3:18)。第二に正しく納得させる、という意味をもち(8:46はその用例)、これに従えば、聖霊が世をさばくとき、この世が自らの罪を認めざるを得ないところまで徹底的に追いこむのである。それは聖霊のなすさばきが相手の滅亡を目的とするのでなく、善導をも含むことを示している。」(説教者のための聖書講解No3264日本基督教団出版局1980))と述べておられる。聖霊のなすさばきが相手の滅亡を目的とするのでなく、善導をも含む故に、私たちの宣教は愛と執り成しの祈りによらなければならない。 

2019/12/17(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:3-5  賛美 新聖歌354

 1:3-2:16には諸国に対する罪の告発と神の裁きの言葉が述べられている。イスラエルから距離のある国から初めてイスラエルへと向かう裁きの言葉は、それぞれの段落が同じ言い回しを繰り返していくことによって、リズムが生まれている。そしてこの国々に対する裁きの言葉全体として、リズムによって作られる一体感をもって読む者の心に迫る。世界諸国はそれぞれ全く異なる存在であるが、すべての国々が等しく神の眼中にあり、神は各国を同様に扱われる。どの国も悪に対しては裁きが与えられる。  最初に語られているダマスコについては王の名をあげながら王家の断絶について語っているが、具体的にこの戦いがどれに言及しているのかは明確ではない。神は選びの民でなくてもそれぞれの罪に応じて公平な裁きをなされる。

 神に造られた世界はすべて神の公平な裁きと支配のもとにある。神の主権が及ばないところはない。イスラエルを見ておられる方は世界中の民を見ておられることを覚えよう。 

2019/12/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 38

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」と言われる。この箇所について橋本滋男師は「罪とはイエスのもたらす救いを信じず、かえって彼を罪人として拒否したことである。この世がイエスを処刑するためには、自ら何が正義であり何を行なうべきか知っているという自負が根底にあるが、まさにそこに―イエスをさばき得ると考えるところに〈8:46〉――彼 らの罪がある。彼らが義としたことが逆に罪であることを知らせるのが聖霊であり、この認識を叩きこまれることによって人は悔い改めへの戸口に立つ。」(説教者のための聖書講解No3264日本基督教団出版局1980))と述べておられる。肉なる人間も人対人の関係における罪は認識することはできる。しかし、神との関係における罪は聖霊によらなければ認識できないのである。聖霊によって罪を認識した時、福音を受け入れる準備が整うのである。 

2019/12/19(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:6-12  賛美 新聖歌427

 ここはペリシテの諸国に対する預言がガザをその代表として名指しする形で述べられ、さらにティルスに言及している。ペリシテは歴史的にイスラエルと対立してきた。そのペリシテの罪を神が罰せられる。イスラエルの民は神が自分たちの味方となり、憎い敵を踏みにじられると喜ぶだろう。しかし読み進めていくとイスラエルとユダもまた神の裁きの対象となっている。つまり、神はどちらに味方するかという視点で裁かれるのではなく、神ご自身の栄光のためにすべての造られた人々を治めておられる。

 ティルスに対しても明確な理由を示して裁きを宣言されるが、歴史的に破棄された契約を特定することはできない。今知ることが出来るのは、個々の事例がどうであれ、ティルスの歩みが、神が定められた国々相互の秩序を乱すものであり、その点で神に従わなかったがためにティルスをも罰すると言われている。

 裁きを告げられた人の側では神の支配など関係ないと考えるかもしれない。しかし世界を治める主がおられる。 

2019/12/20(金) 担当 高谷清師 詩 50:8-11 賛美 新聖歌 369

 律法において神は犠牲をもって神を礼拝すべきことを命じられた。イスラエルはこの律法を忠実に守っていた。イスラエルの焼き尽くす献げ物は常に神の御前におかれていた。従って神は献げ物についてイスラエルを告発されるのではない。この箇所についてA. ヴァイザーは「犠牲そのもの、その実行、その数、あるいはそこに現れた熱意が非難の原因になっているのではない。反対に、神が「いつも見ている」ほどに犠牲の数は多い。叱責の理由はまったく別のところにある。それは犠牲を捧げる時に現れる、神に対する民の倒錯した心の態度である。民は神が自分たちの犠牲を必要とすると考えている。このように、神は人間とその贈り物をあてにしていると考えること、そこに底知れぬ不真実な心がひそんでいる。つまり、人間が神に向かって自立的で対等であるかのような態度を見せ、贈り物で神を人間の意志に従えようとし、救いを無理やり得ようとするものである。しかし真の現実はまさにその逆である。神は神であって人間ではなく、人間などに頼ってはおられない。神は獣の主であり、持ち主であって、人間が主なのではない。神がすべてのものを持っておられるのに、人間はどうして自分勝手の贈り物で神に働きかけようとするのだろうか。このように、人間の倒錯と不真実な態度は火を見るよりも明らかである。つまり、人が厚かましくも神と同じ土俵に登ろうとするわけである。世界の主としての神に対する尊敬はもちろんのこと、自分自身への尊敬もそこには欠けている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P6667)と述べている。神の祝福を豊かに受け、多額の献げ物をもって教会を支えることは素晴らしい。しかしサタンがその心にこのような思いを侵入させているとするなら災いである。自らの心を御前で、聖霊の光のもとで吟味しょう。 

2019/12/21(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 9:57-62 賛美 新聖歌 404

 ここには主に従おうとした三人の人について記されています。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。これに対してイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えられました。次の人にはイエスの方から「わたしに従いなさい」と言われましたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と願いました。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。また、別の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。それに対してイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。これらの厳しいイエスの言葉から、主に従おうとする人々には尋常ではない覚悟が必要であることが分かります。世の義務を果たすことは大切です。しかし神の国を言い広めることは、世との関係を断ち切って神に仕える決断を迫られるほど厳しく、大切なことなのです。