2018/6/18-23

2018/6/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 222
 イエスが「真理はあなたたちを自由にする。」と語られたことに対してユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と反論する。ユダヤ人たちは罪をモーセ律法に対する不従順としてとらえていた。しかし、パウロは「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ロマ 5:12-14)と述べている。世は罪の奴隷となっているのである。それは、彼らがイエスの言葉を受け入れないことによって明らかである。

2018/6/19(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:4-11 賛美 新聖歌345
 イスラエルの現実は主の裁きを受けて、恐れに満たされた状況であった。あまりのひどい現実に男性たちもまた子を産む女のように痛みに震えている。しかし、この痛みは終着点ではない。この痛みと恐れを通して救いが与えられる。神ご自身が「恐れるな」と呼びかけ、捕囚の地からの「救い」を約束される。国を失い、捕囚民として苦しみ、アイデンティティを失う危機にある民に、神は、「私がお前と共にいて救う」(30:11)と宣言される。
 最悪の状況で、なすすべもない人々と共に主はおられる。主の定められたときに、御心に適って救いを成し遂げられる。神は罪を見過ごすことなく、罪に対しては裁きをもって望まれるが、裁きを通しても枯渇することのない民に対する愛を持っておられ、愛する者に救いを与えられる。あらゆる状況において神の愛と救いがあることを忘れず、主と共に歩もう。

2018/6/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 282
 イエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」と語られる。更に「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」と語られる。パウロは「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ロマ 4:13)と述べている。確かに、ユダヤ人たちは肉によってアブラハムの子孫であった。しかし、彼らは世界を受け継ぐ者ではなかった。信仰によらなかったからである。人は肉によっては神の国を受け継ぐことはできず、信仰によってのみ、受け継ぐのである。ヨハネが「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べているとおりである。

2018/6/21(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:12-17 賛美 新聖歌340
 既に国を失い、深く傷ついているイスラエルに対して神はその傷が癒えないと言われる。さらに、彼らの助けを求める叫びに耳を傾ける者もなく、傷口を手当てしてくれる者もいないという。イスラエルが頼った近隣諸国も彼らを見捨てるのだ。なんと厳しい言葉だろうか。この様な残酷な言葉を神はどうして語られるのだろうか。決して、神は苦しむイスラエルを見て喜んでおられるわけではない。むしろイスラエルがこの痛みと傷を直視し、向き合うことを通して、彼らがこの様な苦境に陥った真の原因に気付かせようとしておられる。その上で、イスラエル自身も、周辺諸国も、誰一人イスラエルを回復させることができる者がないことを示される。しかしこのメッセージはこのどん底で終わるのではない。神は「さあ、わたしがお前の傷を治し/うち傷をいやそう」(30:16)と言われる。神は人間の無力さをご存じである。自分の罪によって痛みへと追い込む人間の性質をご存じである。それでもなお人を見捨てることなく、むしろ神ご自身が立ち上がり、傷をいやそうと言われる。この深い神の憐れみを神はすべての人に、時を越えて注いでおられる。私たちもただ神の憐れみの故に罪赦された。感謝しよう。

2018/6/22(金) 担当 高谷清師  詩37: 27-29 賛美 新聖歌 281
 ダビデは「悪を避け、善を行えばとこしえに、住み続けることができる。」と詠う。カルヴァンは「この節において、ダビデは、彼が言及したごとき浄福を享受するためには、どのような仕方にせよ、だれかに対して不正を働くことを止め、慈悲深さを目指すあらゆる道を実行し、隣人に対し善を行なわなければならない、と結論する。たとえこの文章は、肉の思いとは相反するとしても、全人類が陥っている苦悩や困惑の由って来たるところは、すべての者がそれぞれ邪曲と、欺瞞と、強奪と、不正な道に身を任せ、神の祝福を棄却するところにある、ということは確実である。それゆえに、この世で安らかに生き、みずからのものである喜びと憩いとを、正当な権利として享受するのを妨げているのは、他ならぬ人間自身である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P471新教出版社1970)と述べている。主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:43-45)と教えておられる。敵対する者、迫害する者を愛することこそ祝福への道である。

2018/6/23(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 17:11-19 賛美 新聖歌 265
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通っておられました。ある村に入られると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました。イエスは彼らを憐れみ、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。彼らは、イエス様の言葉に従い、そこへ行く途中で清くされたことに気付きました。そこでそのうちの一人が大声で神を賛美しながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。これを見てイエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われました。私たちは日々、イエス様から多くの恵みを受けていながら、感謝し、御名を賛美することの如何に少ない者であろうか。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(?テサ5:16-18)と述べています。感謝と讃美を絶やさない者となりましょう。”,,590″