2019/1/21-26

2019/1/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 22 

  イエスがラザロを生き返らされた出来事の報告を受けて、人々が自分たちから離れてイエスを信じるようになることを恐れた祭司長たちとファリサイ派の人々は、その対策を協議するため最高法院を召集した。その席でその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。カイアファがこの発言に込めた意図は先日述べたとおり、悪意に基づくものであった。しかしヨハネは「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と述べている。神は悪意にもとづくカイアファの言葉を用いてご自分が為そうとしておられる御業の真理を告知しておられるのである。常に神の言葉と御言に目を注ごう。

 

2019/1/22(火) 担当 ラウジー満世師 )

 エレミヤ書50:8-16 賛美 新聖歌373 エレミヤの時代に急速に勢力を拡大していた大帝国、バビロンも迫り来る敗北と荒廃から逃れる余地はない。人々はそこから一刻も早く逃れるように勧められる。向かうところ敵なしという状態であった大帝国に対してさえ、主がさばきを行うために立ち上がられると彼らはなすすべもない。バビロンが主を受け入れないとしても、神の偉大な力は揺るがない。また、バビロンがこれほどの裁きを受けるのもまた彼らが神の嗣業を奪ったという罪の故であった。

 ここでもまた神の力がされている。神は地上でどれほど権勢を振るうものに対しても、ご自身の御心に従って公正な裁きを行う力のある方である。神の前に正しく歩む者でありたい。

 

2019/1/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:53-54 賛美新聖歌 205

 「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」と記されている。イエスを殺害する相談は以前からなされていたが、今や、最高法院の意志として正式に決定されたのである。イエスはこの決定を受けて「時」の近いことを悟り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に退き、弟子たちとそこに滞在された。この間のことについてジョン・C・ライルは「そこで公的な働きをされたという叙述がない点にも注目すべきである。十字架までに残された最後の静かな数日を、父なる神との間断のない交わり、弟子たちの個人的な教育に用いられたようである。」(ライル福音書講解ヨハネ3P117聖書図書刊行会1987)と述べている。イエスは父なる神によって託された使命を成就する、地上の生涯における最重要な御業を前にして、父なる神との交わりと弟子たちに対する教えの時を持たれたのである。私たちも神の重大な働きを前にする時、まず御前に膝まづいて神との交わりの時を大切にしたい。

 

2019/1/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:17-20 賛美 新聖歌266

 バビロンとアッシリアによって滅ぼされたイスラエルの民がライオンに追われてばらばらに逃げ惑う羊として描かれている。私たちはイスラエルの不従順の罪ゆえに神が彼らをアッシリアとバビロンを用いて裁かれたことを知っている。そして神の裁きを受けたのち、民は同じ神によって元の牧場に連れ戻される、つまり回復されるという。その際には、彼らを滅ぼした両大国は神によって罰を受ける。驚くべきことにこのイスラエルの回復の時には彼らに罪が見出されないという。歴史を通じて何人もの預言者を通して罪を警告されても神の前に正しく歩むことができなかった民に罪が見出されない。そしてその理由は民の自己努力によるのではなく、神が彼らの罪を赦してくださるからと述べられている。

 神は人をその罪のために裁くだけのお方ではない。神は一人ひとりを憐れみ、罪を赦し、罪を取り除いて恵みを注いでくださる豊かな愛に満ちたお方である。

 

2019/1/25(金) 担当 高谷清師  詩 40:17  賛美 聖歌 265

 新共同訳が「あなたを尋ね求める人が」と訳しているところを新改訳は「あなたを慕い求める人たちがみな」と訳し、聖書協会共同訳は「あなたを尋ね求める人すべてが」と訳している。口語訳、岩波訳、フランシスコ会訳、等も「すべて」・「みな」等の語を加えている。そしてカルヴァンはこの箇所について「神がただ単にひとり、あるいはふたりの人間というのではなく、すべての人間によって共通に、憐れみ深い神として知られることを欲せられるかぎりにおいて、神がその子らのだれかひとりを救い出される度ごとに、すべての信仰者がこのひとりの人物のうちに、神がご自身をどのような方として示されるかを見るとき、それは彼らがみずからにも転借すべき共通の便益である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P47新教出版社1971)と述べている。イエスは裁きの場面の描写で「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタ 25: 40)と語っておられる。またパウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(マタ 25: 40)と述べている。信仰者個々人に与えられた祝福は教会全体の祝福であり、個々人が受ける苦難は教会全体の苦難である。喜びの時にも苦難の時にも互いに分かちあい、祈りあい、愛に結ばれて歩もう。

 

2019/1/26(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:9-11 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。」と語ります。そしてイザヤは「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザ 40:7-8)と語っています。先週は阪神淡路大震災の記念行事が行われました。また近年は特に災害が多く、生涯の大事業として建てたマイホームや、何代にもわたって築き上げた財産が一瞬にして消滅するのを見てきました。貧しい兄弟は高められ、富は草花のように滅び去り、富んでいる者は、低くされるのです。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つのです。神の言葉にのみ、信頼して歩みましょう。