2019/2/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美 新聖歌 427
菅原裕治師は「この物語が提起している問いは、キリスト教が、あるいはイエスをメシア・キリストとして信じている人間の集団が、そのメシアで本当に満足しているかという問いであったことが分かるのである。キリスト教において、メシアは不可欠であるが、それは民族的な枠組みや国家的な枠組みの中で、政治的あるいは軍事的または経済的に現実に働く存在ではない。それゆえに、イエスをメシア・キリストと信じる人間は、そこにはないものをメシア以外の存在に求めてはいないかと問いかけられているのである。(中略)この世がいかに神から離れて人間的な悪に満ち溢れているかを明確に示しつつ、人間的な力に頼り、悪を撲滅するために戦うことではなく、神が示す平和をよりどころとしてろばに乗って歩むイエス、そのイエスを読者はどう受け入れるかを強く求めているのである。」『アレテイア一一釈義と黙想ヨハネによる福音書』、日本基督教団出版局2004、P198)と述べおられる。過去、「イエスを信じる」と告白する人々がイエス以外のもの、権力、富、等を、神が与えられる限度を越えて求め、破綻を招いた。真実に、キリストに生きよう。
2019/2/19(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:20-40 賛美 新聖歌291
ここでもバビロンに対する神の裁きとその理由が続けて語られる。バビロンは神の武器であったのにその与えられた分を超えてシオンを滅ぼし、国々を滅ぼした。それ故に神はバビロンを裁かれる。そしてこの神のバビロンに対する復讐は人々の目の前で公然と行われる。歴史の動きの中で人の目に映るものは強大な力を持った地域や国々である。しかし神はご自身が一つ一つの出来事の背後におられることを、公然と人々の前で事を起こすことによってあらわされる。神を知らない人々は歴史上の出来事の多くが「たまたま、偶然、幸運にも、不幸にも」起こったと考える。しかし神が世界を治めておられる。そして神の目に適うことを行わない者には神がその主権をもって正される。
様々な出来事の表面を見て一喜一憂するのではなく、その背後にある神の思いと、その神の御手の中で正しく生きるべきことを知り、神の前に歩む者として生きよう。
2019/2/20(水)) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美 新聖歌 201
更に菅原裕治師は「第二の問いかけは、物語の引用文が直接読者に伝える、「恐れるな」という事柄である。ヨハネ福音書の物語の場合、人間が、神の正義と平和と信仰から離れてしまうことの理由の一つに、この恐れがある事を示している。恐れから、自己を守るために、正義に対して沈黙し、人間間・思想間・宗教間での他者とのコミュニケーションを拒絶し、他者の悲劇を無視し、イエスの栄光からも遠ざかり、復活のイエスからも自己を閉ざすのである。この物語は、そのような存在である人間・読者に対して、恐れるなと語っている。すなわち、ろばの子に乗ったイエスを恐れず真撃に受容することを求めているのである。」(『アレテイア一一釈義と黙想ヨハネによる福音書』、日本基督教団出版局2004、P198)と述べおられる。ユダヤ人を恐れて弟子たちはイエスから離れ去り、ぺトロはイエスを否認した。イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ 10:28)と教え、更に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハ 5:24)と教えておられる。異教世界に住む私たちには多くの困難、恐れがある。しかし世は、体は殺しても魂を殺すことはできない。イエスは信じる者に永遠の命を得させてくださる。
2019/2/21(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:41-58 賛美 新聖歌390
しばらく続いたバビロンの覇権を目の当たりにして、人々はこの国を賛美した。そしてバビロンが信じる偶像を恐れた。しかし、これは的外れな賛美であり、恐れである。偶像は人の手で素材を刻んで作った形に過ぎないが、人間は一度刻まれた像に恐るべき力があると聞かされればそこに霊的な恐れを感じて、その恐れに支配される。しかしイスラエルの神、真の神である万軍の主は、バビロンの偶像を罰せられる。真に力ある方はバビロンの偶像ではなく、神なる主であることをはっきりと伝えている。
現代でも人を惑わす刻まれた像はあらゆるところに満ちている。国境を問わず、時代を問わず、どこにでも人の手で作った像が神としてあがめられている。しかし聖書が語る通り、真の神は聖書においてご自分を啓示された天地の造り主であり、贖い主であり、イスラエルを導かれた神おひとりである。真の神を礼拝しよう。
2019/2/22(金) 担当 高谷清師 詩 41:2-13 賛美 新聖歌 390
詩人は「主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば/彼らを見返すことができます。そしてわたしは知るでしょう/わたしはあなたの御旨にかなうのだと/敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。 どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください。」と祈る。エリヤがカルメル山でバアルの預言者と対決した時、神に従う者はエリヤ一人であり、バルの預言者は450人もいた。エリヤは「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」(列上 18:22-24)と提案する。人々はこれを受け入れ、神が火をもって応えられたのはエリヤの祈りに対してであった。これによってエリヤが真の神の預言者であることが明らかにされた。多数派が真の神の僕とは限らない、権力者が真の神の僕とは限らない。神は、祈りに応えることによって、彼が真の僕であることを明らかにされる。
2019/2/23(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:16-18 賛美 聖歌 441
ヤコブは「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」と述べています。主イエスは山上の説教の中で「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタ 7:9-11)と語られました。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は不変のお方です。それ故、神はどんな場合にも善き、完全なものをくださるお方です。