2019/3/11-16
- 2019.03.11
- ディボーションの友
2019/3/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:27−28 賛美 新聖歌
イエスはご自身に負わされた人間の罪の重圧と、それ故に迫り来る死を前にして「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と語られた。それはイエスが全き人間として生き、人間の苦しみ、悲しみのすべてを味わってくださったことを示している。ヘブライ人への手紙の記者が「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:15)と述べているとおりである。しかしイエスはそこに止まられるのではなかった。続いて「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈られる。父なる神は愛により、私たちを救うために独り子を世に遣わしてくださったのである。罪の無いご自身の独り子を十字架につけ、その血によって世のすべての罪を赦すために御子を遣わされたのである。イエスは父の御心を、全存在をもって受け止め、十字架に向われるのである。私たちも、神の御心を知る時、たとえそれが自らの肉にとって喜ばしいと思われないとしても、従う者となりたい。
2019/3/12(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:1 賛美 新聖歌302
ホセア書を読み進めていく。ホセアが預言した時代は列挙されている南王国の王たちの時代から考えると紀元前786年以降のほぼ一世紀の時代である。これらの南の王はイザヤ書冒頭にも記されているように、イザヤが預言した同時代に北王国で神の言葉を語っていたのがホセアである。当時、北王国はヤロブアム二世が治めていた。政治家として有能であった彼の時代に北王国は繁栄し領土も拡大した。ソロモンの時代にも匹敵する程に領土を拡大し、発展していたこの国がわずか約40年後に滅びるなどとは考えなかった時代である。しかしヤロブアム二世の統治の終盤には衰退の影が見え始める。彼の死後、メソポタミアでアッシリアが力をつけて西方へも進軍してきた。この危機に北王国はアラム王と共に反アッシリア同盟を結成し、南王国にも加わるよう軍事的圧力をかけたが、南は耳を貸さずにアッシリアに頼った結果、北王国は北のアッシリアと南のユダの脅威を受けることになった。
イザヤと同時代、ユダ王国よりも短命に終わった北王国に対してホセアは語った。北王国が終焉を迎える時代に語ったホセアのメッセージにしっかり耳を傾けたい。
2019/3/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 2:27−28 賛美 新聖歌 301
イエスの祈りに対して父なる神は答えられる。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と。神によって遣わされた神の独り子なるイエスの地上での歩みのすべてが神の栄光を現すものであった。それに続く十字架と復活、高挙によって神の栄光は余すところなく現わされたのである。本福音書をここまで読んできて一つのパターンに気付く、即ちイエスが御業を行い、あるいは語られる時、人はこれに反論し、論争が起こる。両者は決してかみ合わない。イエスは霊において語られ、人は肉において聞くからである。再び言うが、神は御子において、御子の地上の生涯と十字架と復活、高挙においてご自身をあらわされた。イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マコ 8:34-35)と語っておられる。自分を棄て、肉を棄て、信仰により、霊によってイエスに従おう。これこそが命の道である。
2019/3/14(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:1 賛美 新聖歌259
預言者ホセアの言葉を聞くにあたり、彼の人となりを知りたいと願うが、ホセア書は多くを語らない。ホセアの出身地や職業は語られることなく、ただ父親がベエリであったとだけ紹介されている。ホセアは神の命令によって不実なゴメルと結婚し、生まれた三人の子には神の裁きを告げる名をつけた。ホセア自身の人生を通して神のイスラエルに対する愛を示すという、大変な宣教を託された。ホセアは北王国内で語った。彼は豊かな比喩表現を用いて神と民との関係を語った。神を親として、農夫として、捕鳥者として、など様々な比喩を自在に用いている。自然の豊かな情景を用いながら語るホセアは想像力豊かな人物であっただろう。また、豊かな感性を持った預言者自身の大変な家庭生活から、神が不実の民イスラエルをどのように感じておられるかを感知し、神の深い愛を語ることができた。
神はなぜホセアにこのような大変な人生を歩ませたのかと思う。しかしその経験を通してこそ神の愛の深さを知り、メッセージを語ることができた。このみ言葉の中から時代を超えて変わらない神の愛があることを知りたい。
2019/3/15(金) 担当 高谷清師 詩 42:2-7 賛美 新聖歌 172
かつてエルサレム神殿に仕える身でありながら、何らかの理由で、現在も野生のガゼルが生息する北方のヨルダン川水源近くの地に追放され、失意の只中にある詩人に対して、人は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲る。このような状況下にあって詩人は「涸れた谷に鹿が水を求めるように」神を慕い求める。しかし、神の臨在を掴むことはできず、失意は益々深まる。しかし詩人は信仰に立って言う「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。失意の中にあって神に祈り求めながら答えを得ることが出来ず、人々の罵りが募っていく状況の下で詩人は尚、神に望みを置き、信仰に立って歩むのである。これはヨブの生涯を思い起こさせ、宣教不振に苦しむ私たちに勇気と希望を与える。神に望みを置き、小細工に走らず、信仰に立って歩もう。いつの日か、神は必ず答えてくださる。
2019/3/16(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 2:19-20 賛美 聖歌 157
先日の姫路三浦綾子読書会において「愛の鬼才一一西村久蔵の歩んだ道一一」を読みました。その作品に描き出された西村久蔵の人間像を見る時、それは西村久蔵氏がキリストの教えに従うよう努力して愛の行いを行っておられるといったものではなく、それは彼の人格から出る自然な姿であるという印象を受けました。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ 2:20a)と述べている御言葉を彷彿とさせるものでした。イエス様を信じるということは、イエス様の教えを学んでその教えに従い、行うというようなものではなく、自分を空しくし、心にイエス様を迎え入れ、イエス様の命に生きることです。
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