2019/3/24-29

2019/6/24(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:34 賛美 新聖歌 214

 イエスは弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られる。また、弟子たちの足を洗い終えられたイエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。と教えておられる。またヨハネは第一の手紙において「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(?ヨハ3:16)と述べている。「先生」であられ「主」あられたイエスが当時の社会において最も卑しい身分の仕事であるとされた足を洗うことによって愛を現わされた。また、私たちのために命を捨てることによって愛を示されたのである。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とは自らを低くし、空しくして互いに仕えることである。
 
2019/6/25(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:7-10  賛美 新聖歌266
 日々地道な作業を続け、農夫たちは作物の種をまいて育てる。人の努力に加えて季節の移り変わりと雨と適切な温度と日照が与えられて初めて作物は育つ。しかしここではイスラエルの民がどれだけの作業をして作物を育てても作物は実らないという。人が努力をしても神からの祝福としての雨や太陽を失えば、人の働きが実を結ぶことはない。ホセア書は続けてイスラエルが的外れな相手に対して庇護を求めてすり寄る姿を野ろばの姿に重ねて表している。すでに収穫もなく、国土は荒れ、価値のない国となってもなお庇護を求めてアッシリアに贈り物を贈ってなおも気をひこうとする。その結果得られるのは庇護ではなく、贈り物によってさらに増大する金銭的圧迫と重荷である。
 イスラエルは知らなかったのだろうか。自分の力によって苦境を打開することは不可能なことであり、彼らを救うのはただ神の赦しと憐みによるということを。人は神の前に努力して自ら働く。しかしそこに神への正しい従順と、背きに対する悔い改めによる親しい関係がなければ人の努力はむなしいのである。
 

2019/6/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:34 賛美 新聖歌 211

 イエスは「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」(ヨハ 5:42)と語っておられる。また、パウロは「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:5)と述べている。愛は肉の内には存在せず、聖霊によって私たちの心に注がれるものである。イエスが私たちを愛してくださったように互いに愛することは、肉の思いや決断によって出来ることではなく、日々御言葉と祈りによって神と交わり、聖霊に満たされることによってのみ、できることである。
 
2019/6/27(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:11-14  賛美 新聖歌366
 当時のイスラエルの民は真の神に対する礼拝をささげていないと言われても、まったく理解できなかっただろう。彼らは「神」に礼拝をささげるための祭壇を築き、きちんと既定のいけにえを献げていたのだから。しかし人々との霊的、個人的な交わりを求められる神は、その祭壇とささげ物こそが罪となったと言われる。様々な預言者達が繰り返し指摘した神に喜ばれないいけにえや礼拝は、多くの場合、それを行う人々が気づかないうちにそこに陥っている。人々は真の造り主をしっかりと覚えていると思っているが、実際にはその造り主を忘れてしまっている。結果として自分の権力と財力と能力を誇示する宮殿や大建築を建て連ね、自身の力による守りを強固にしていく。
 このような姿は神の目にはどう映るのだろうか。それは罪に他ならない。偶像礼拝と背信と高慢の罪である。気づかぬ間に陥ってしまうところにこの罪の深刻さがある。私たちは日々み言葉によって歩みを確認し、聖霊の導きによって神との正しい関係の中に歩ませていただこう。
 
2019/6/28(金) 担当 高谷清師  詩 45:9 賛美 新聖歌266
 詩人は「あなたの衣はすべて/ミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち/象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う。」と詠う。神に油を注がれた者は神の支配に服する者であり、神はその人を通してご自身をあらわされる。パウロは「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(?コリ2:14-16)と述べている。人は自己努力によっては神の義に達することはできない。聖霊に導かれ、キリストの贖いの恵みに与ることによってのみ、全き義、神の義に預かり、命から命に至らせる香りを放つことが出来る。それによって集められた人々がまたキリストの恵みに預かり、命から命に至らせる香りを放つ者となる。そして全体として命から命に至らせる香りを放ち続ける、これが教会のあるべき、真の姿である。
 

2019/6/29(土)担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17 賛美 新聖歌 462

 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応えてレビはイエスに従った。後日、レビはイエス様一行を招いて食事の席をもうけた。そこには多くの徴税人や罪人も同席していた。これを見たファリサイ派の律法学者は、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。これを聞かれたイエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。

 世の「正しい人々」は自分の正しさを示すために「徴税人や罪人」との交わりを断とうとする。しかしイエスは罪人を招き、その招きに応じてイエスのもとに来る人々を義としてくださるのです。