2019/12/2-7
- 2019.12.02
- ディボーションの友
2019/12/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:22-25 賛美 新聖歌 438
イエスは「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」と語られる。3章では「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ 3: 1)と語っておられる。12章では「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」(ヨハ12: 47-48)と語っておられる。イエスは罪人を救うために世に来られた。人々がイエスを信じて救われるために神の言葉を語り、栄光をあらわされた。神の言葉を聞き神の栄光を見たのに信じない者には聞いた言葉と目にした栄光が裁きとなるのである。
2019/12/3(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:13-17 賛美 新聖歌216
4:13-15は続けて主の日の恐ろしい光景について述べている。人々が主の裁きの日に立ち上がるように呼び掛けられる。そして主の裁きを受ける人々は裁きの谷に集められている。裁きが下るその日には太陽、月、星がその光を失う。天地創造の時に暗闇の中に神の言葉によって創造された光、昼と夜をそれぞれつかさどるものとされた太陽、月、星も光を失う。暗闇の世界において唯一聞こえてくるのは主がシオンから上げられる声だけである。その声は主に従う主の民にとっては恐ろしい裁きの宣言ではなく、避け所を告げる声であり、主の声によって導かれるときに人々は神を「知る」ようになる(4:16-17)。
主の日に至るまでに神の厳しい裁きは確かに行われる。しかし神に従う者は確かに主のものであると宣言され、明確にされ、神との親しい関係の中で生かされる。主の日にさらに神を知る知識に満たされることを待ち望みつつ、今、主の民として主に心を込めて従おう。
2019/12/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:26-27 賛美 新聖歌 433
イエスは14章において聖霊―弁護者・真理の霊の派遣を約束してくださった。イエスが世を去って父のもとに帰られた後遣わされる弁護者・真理の霊―聖霊はイエスについて証しをされるのである。この約束はペンテコステの日に成就した。聖霊を注がれた弟子たちは真理に導かれ、力と愛に満たされ、地の果てまでキリストを証ししていったのである。聖霊は今日まで教会に留まり、信じる者の内に働いて全世界に福音を証ししておられるのである。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ 12: 3)と述べている。へりくだって聖霊の満たしを求め、日々聖霊によってイエスを証ししていこう。
2019/12/5(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:18-21 賛美 新聖歌343
主の民にとっての主の日は平和と祝福に満ちた時であり、喜びが沸き上がる。主は主の山として定められたシオンに確かに住まわれる。その平和と祝福は絶えず敵の存在に脅かされるようなものではない。神に従わない国民は神によって荒廃に至るからである。神は終わりの日に確かに神の義を示し、神に従う人とそうではない人々をそのさばきにおいて明確に区別して扱われる。神に逆らう者が裁きを受けるとき、神の民は主の神殿を中心とした、土地を潤す水が流れ出る川が流れる豊かな土地に住まわせていただける。そしてそれがとこしえの住まいとして語られている。
神の民、イスラエルの歩みは決して平坦なものではなかった。神に選ばれていながら罪を犯し、背きの罪の結果として国は荒廃し、捕囚の民となった。しかし神は真実であられた。彼らを永遠に見捨てることはなさらず、「主の日」に全世界に対して義なる神として正しい裁きを行われ、ご自分の民に確かな平和と祝福を与えられた。終わりの日の希望を望み見つつ、今日の一日を神とともに歩もう。
2019/12/6(金) 担当 高谷清師 詩 50:4-6 賛美 聖歌 635
この箇所には神がご自分の民に御自ら裁きを行われることが記されている。パウロもまた「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(?コリ 5: 10)と述べている。裁きの法廷における裁き主は神ご自身である。裁きは天が明らかにする神の義による。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ロマ 1: 18)と述べている。そして被告人は「わたしの慈しみに生きる者、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」である。「わたしの聖徒たち」(新改訳・新共同訳では「わたしの慈しみに生きる者」)について鍋谷尭爾師は「ここで集められる「神の聖徒」は、単なる肉のイスラエルではなく、神の一方的な恵みによる十字架上に成就された神の義を信じるすべての人を意味しています。(『詩篇を味わう?』Pいのちのことば社 2006、P92)」と述べておられる。神の一方的な憐れみによって救いの恵みに与った私たちも、やがて神の法廷に立つ時が来ることを思い、日々福音に忠実に歩もう。
2019/12/7(土) 担当 高谷清師 ヨハ 16:1-4 賛美 新聖歌 395
イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」と語られる。「これらのこと」とは13:-15:の弟子たちに対する教えを指すであろう、とりわけ15:18−27に主眼が置かれているであろうというのが多くの人々の見解である。15:18−27においては、弟子たちはイエスによって選び分かたれてイエスの者とされた者であって世の者ではない。従って世は世の者ではないイエスを憎んだように、イエスの去られた後、弟子達をも憎むであろう。それに対してイエスは弁護者、真理の霊を遣わす約束を与えられた。イエスが世を去られた後、弟子たちは世の迫害に直面するであろう。あなたがたを会堂から追放し、殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来るであろう。そのような事態に直面した時、弟子たちがつまずかないためにイエスは語られたのである。パウロは愛弟子テモテに「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ 3: 12)と書き送っている。キリスト者は世の者ではない。従って世との摩擦は避けられない。しかし弁護者、真理の霊は常にともにいてくださる。主により頼み、心を定めて主に従おう。
-
前の記事
2019/11/25−30 2019.11.25
-
次の記事
2019/12/9-14 2019.12.09