2019/4/16-21

2018/4/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 聖歌 260
 イエスが朝早く神殿の境内で民衆に教えられているところに、律法学者たちやファリサイ派の人々の一団がやってきた。彼らは恥辱にうなだれ、恐怖におののく一人の婦人を引き立てていた。イエスの前に来ると律法学者たちやファリサイ派の者たちは訴えて言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と。これはイエスを陥れるための悪意に満ちた問いであった。律法学者たちやファリサイ派の者たちは、イエスが「赦せ」と言われたならイエスを「律法を否定する者」として告発することが出来る。一方、「律法に従って石で撃ち殺せ」と言われたならローマ法に反する者として告発することが出来る。またイエスの「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ 19:10)と言う言葉に矛盾するからである。沈黙されるイエスにしつこく問い続ける律法学者たちやファリサイ派の者たちにイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と答えられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って行ったのである。自らを省みることが大切である。

2018/4/17(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書25:1-14 賛美 新聖歌185
 ヨシヤの子ヨヤキムの第四年といえば、紀元前605年である。この年エジプト軍がバビロン軍と戦い、敗北した。それによってエルサレムの脅威は南からではなく、北から押し寄せることになった。エレミヤが預言し続けてきた「北からの敵」が具体的に目の前に迫って来る敵として現れた。この状況においてこれまでに語られてきた預言が再度強調されている。さらに、敵が「バビロン王ネブドレツァルが率いる北の諸民族」(25:8)と名指しで指摘されている。これらの敵が押し寄せた理由は一貫している。民が神の言葉に聞き従わなかったからである。
 既に神の裁きが決定的なものとなっている状況において、預言者はなお民の罪を指摘する。驚くべきは、この切羽詰まった状況においてもなお、民が悔い改めるならば主はイスラエルの地を守ってくださる、裁きを下されないと語られていることである(25:5)。罪びとに対する神の厳しさと同時に、最後まで人々の悔い改めを待って赦そうとされる神の愛の深さを知る。これが自分以外の「罪びと」に向けられた言葉として聞き流すのではなく、自分を省みて神に従おう。

2018/4/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 214
 訴える者たちが去った後、イエスは身を起こして「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と言われた。女が、「主よ、だれも」と答えると、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と。これこそ、赦しの宣言である。短文であるが、神の御子が人となり、世の罪を負い、十字架に架かり、血を流し死んでくださった、比類なき贖いの御業に立った宣言である。その御業は愛によって成し遂げられた。この女は贖いの御業はまだ知らない。しかしこのイエスの言葉によって恥辱と恐怖から解放され、喜びと平安と感謝に満たされたのである。ヨハネは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(?ヨハ4:18)と述べている。

2018/4/19(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書25:15-38 賛美 新聖歌325
 神の裁きについて続けて語られている。神の裁きを受けるのはエルサレムだけにはとどまらない。神はここですべての国々に対して神の怒りの杯を飲ませると語られる。17節から26節に列挙される国々の名を見ると、エジプトからバビロンに至るイスラエルの周辺諸国が含まれていることが分かる。神はイスラエルの神であると同時に世界を治める神である。神は全地を統べ治めておられるがゆえに、すべての民が神に背く人々に対して注がれる神の怒りの杯から逃れ得ないのである。
 私たちは日々の生活に精いっぱいで、全世界を見渡す目を持てないことがある。また世界に目を向ける時、真の神があらゆるところを治めておられるとは思えないようなことがある。しかし神は確かに全世界を治めておられ、正しい統治をなさることを覚えて主に信頼して歩もう。

2018/4/20(金) 担当 高谷清師  詩 37:14-15 賛美 新聖歌 438
 この箇所についてA. ヴァイザーは「敬度な人々に対するどのような罪の企みもそれ自体のうちに没落の萌しを含んでおり、自ら崩壊せざるをえない。これが彼の揺るぎない確信であり、信仰の見地からいっても当然の確信といえよう。罪そのものがすでに審きなのである。罪の武器は罪人自身に向けられ、自分自身の手中にあって彼を破滅させる。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P415ATD・NTD聖書註解刊行会1983))と述べている。ヨハネは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ 3:17-19)と述べている。福音を信じないで、「先祖代々の宗教でないから・地域社会の宗教でないから」と、信じる者に反対する人々は、それ自体が彼の裁きとなっているのである。

2018/4/21(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 19:1-10 賛美 新聖歌 340
 ザアカイは徴税人の頭で金持ちでした。しかし、友も無く孤独で寂しい生活を送っていました。そんなある日、イエス様がザアカイの住んでいる町を通られ、彼の家にお泊りになりました。イエス様との親しい交わりの中で悔い改めに導かれ、ザアカイの心は変えられました。強欲一点張りであったザアカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と告白したのです。これを聞いてイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われました。イエス様こそ、友なく、孤独に悩む人を救ってくださるお方です。”,,646″