2019/10/14-19

2019/10/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:6 賛美 新聖歌 201

 イエスは「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と語られる。イエスにつながっていない人はの行く末は滅びである。「イエスにつながっていない人」とはどのような人であろうか。先ずは福音に全く耳をかさず、御名を呪う人々である。次いでは、イスカリオテのユダのような人々である。彼は他の十一弟子たちと同じようにイエスと寝食を共にし従っていた。他の十一人とともに最後の晩餐の席に与っていた。しかし人の目からは見えない心は真実ではなかった。また、パウロは「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリ 1:15-18)と記している。サムエル記には「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(?サム 16: 7)と記されている。人前を繕うのではなく、心によって見られるお方の前に、真実に歩もう。
 
2019/10/15(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:15  賛美 新聖歌270
 「主の日」とはどのような日であろうか。それは聖書によると希望に満ちた日でもあり、また、最終的な裁きに直面する日でもある。二通りの「主の日」について語られている。一方でそれはイスラエルの救いの日であり、他方ではイスラエルの破滅の時である。破滅の時としての主の日を最初に語ったのは預言者アモス(アモス5:18-20)であった。またゼファニヤも近づく主の日は主が選びの民に敵対なさる時だと語った。ヨエルもここで主の日が恐るべき日であると語る。それは全能者―神―が破滅をもたらす日であるとしている。この日は間近に迫っている。具体的にその日の描写は15節には記されていない。それがこのいなごの大群の大襲来なのであろうか。
 主による破滅など起こらないと考えて警告の言葉と救いの道を示されたのに心に留めずに滅びたノアの時代の人々のようにならぬよう、へりくだって主の言葉を聞き、主に促されたならばそれに従って行動しよう。
 

2019/10/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:4-5 賛美 聖歌 265

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られたイエスは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と語られる。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」という約束は、神につながっており、イエスの言葉が内にいつもある人々に対するものである。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:20)と述べているように、全き信仰により、イエスの心を自分の心として生きる人々の祈りである。このような人々の祈りについてヤコブは「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコ 5:16b)と記している。肉を棄てキリストに生きる者となろう。
 
2019/10/17(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:16-20  賛美 新聖歌176
 主の裁きの日には一切の食べ物が断たれる。作物が実らない現実を目の前にして人々はただ嘆きの声を上げるだけである。家畜も表現しようのない呻きを上げる。このように呻きつつさまよう家畜の姿はまさにこの飢饉に直面する民の姿と重なる。そのような中でも預言者は神に助けを求めるほかはない。さばきとしてのこの災いを送るかただけが、民をそこから救い出すことのできるお方だからである。民の救いはただ神にしか見出せない。
 神からの破滅の日に直面している民にとって、その災いを送られた神に助けを求めるのは様々な意味において容易なことではない。しかし、神が破滅を送られる原因となった罪に向き合わない限り、回復はない。主の日に直面して民がなすべき応答は神に立ち帰り、神に助けを求めることである。私たちの信仰生活でも、反省と悔い改めをもって神との正しい関係に立ち返る勇気を持ちたい。
 
2019/10/18(金) 担当 高谷清師  詩 49:6-7 賛美 聖歌 556
 詩人は「災いのふりかかる日/わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも/どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。」と詠う。A. ヴァイザーはこの箇所について「詩人を苦しめる問題の論じ方からして、事柄は理論的な思考の範囲で解決される性質のものでないことが明らかになる。問題は彼の実際の生活そのものから生じたのである。それゆえ、よく言われるような弁神論とか応報思想とかの教義上の問題ではない。そこで彼が与える答えも、まったく実際生活の仕方を目指している。これは詩人自らが、生の試練との戦いの中でかちとった信仰の態度としての平安と平静に、人々を導こうとするものである。この詩は、人生のさ中で、人生のために書かれている」という言葉は、一見自分を突き放したような問いではあるが、ここからしても、多数の敵がもたらした不快なことに面して自らを抑えつける詩人の感情がにじみ出ている。それは恐怖と嫉妬である。すなわち、人間の暴力と権力に対する被抑圧者の恐怖であり、さらに自分の乏しさを痛切に感じさせる富者への嫉妬である。この二つの感情はどこにでも認められるので、この詩が立てる問は時と場所とを越えて人々に訴えている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P55)と記している。
人類の歴史は富と権力の争奪の歴史であり、現在進行中の争いの原因、人々の心に鬱積する不満の原因もまたこの問題である。これについて本詩編は、また聖書はいかなる答えを与えるであろうか。御言葉を学び、神に問い続けよう。
※お詫びと訂正 2019/10/11(金)の聖書箇所を詩 48:2-4としていましたが、正しくは詩 49:2-4です。お詫びし、訂正いたします。
 

2019/10/12(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:4 賛美 新聖歌 268

 イエスは「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」と語られます。パウロは「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラ 5:22-23)と記し、「柔和」を霊の結ぶ実の一つとして数えています。則ち「柔和な人々」とは、自らの罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いの恵みを受け入れ、救われ、聖霊に満たされて歩む人々です。この人々こそアブラハムに約束された地を受け継ぐ人々です。