2019/11/25−30
- 2019.11.25
- ディボーションの友
2019/11/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:18-21 賛美 新聖歌 251
イエスは弟子たちについて「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」と言われる。「世」についてヨハネは「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハ 1:10-11)と記し、また、世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。(ヨハ 7:7)と記している。「世」はイエスを認めず、イエスを憎む存在である。従ってイエスによって世から選び出され、イエス属する者となった弟子たちを憎み、迫害するのである。パウロも「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ 3: 12)と述べている。イエスの弟子として歩もうとする者は世の憎しみと迫害に遭う覚悟が必要である。
2019/11/26(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:1-8 賛美 新聖歌327
主がユダとエルサレムの繁栄を回復なさる、終わりの時、すなわち主の日に諸国民に対してなされる裁きについて記されている。主の民が国を失い、捕囚となり、神の力と選びはもはや無効であるように感じられる時を過ごしても、その後、神の時が来たならば神は歴史を統べ治める方として諸国民に対するさばきを行われる。この時、神は所有の民、イスラエルのために立ち上がられる。どんな時でも神はご自分が選び、ご自分のものと定められた人々を決して忘れてはおられない。一方、神に敵対して神の所有の民を攻撃した人々、神の御心に背く諸国民に対しては終わりの日に主ご自身が正当な復讐を返される。
神を信じて従う人々が歴史上の出来事を見るときに神の力と臨在、選びと守りを失ったかのように見えるときがある。しかし、神はしっかりと歴史の中で行われる神に対する従順と不従順を見ておられ、定められたときに正しい裁きをなさる。その日を望みつつ、今私たちは日々神の前に従順に正しく歩む信仰生活を続けていこう。
2019/11/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:18-21 賛美 新聖歌 201
イエスは弟子たちについて「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」と言われる。15節においてイエスは「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と語られた。これはイエスとわたしたちとの関係が主人と奴隷のような隷属関係ではなく、イエスが主導される愛と信頼との関係にされたことを意味している。ヨハネが「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(?ヨハ4:10)と述べているとおりである。パウロもまた「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ 8:15)と述べている。愛と信頼によって友とされている恵にあって、日々祈りをもって歩もう。
2019/11/28(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:9-12 賛美 新聖歌154
9節の呼びかけには驚きを隠せない。神は敵である諸国民に兵士を集めて戦いに備えよと言われる。イザヤ書2:4やミカ書4:3では終わりの日の平和を表現して人々が剣を鋤に打ち直すと言われている。しかしここでは敵である諸国民に総力を結集し、さらにあらゆる道具を武器へと打ち直せと、正反対の呼びかけをなさる。意外な呼びかけだが、しかし最終的には主が正しい裁きをなさるヨシャファトの谷において奮い立つ諸国民に対しても神の裁きをなさるという信仰を持って読むならば、この響きは全く変わる。その時、これは傲慢にも自らの力を見極められない諸国民が、団結して神に対して勝利を得ようとしている姿に対する大いなる皮肉となる。
世界を統べ治め、最終的に御力を示して神に逆らう国々を砕き、主の民のために救いを成し遂げてくださる神が居られるという信仰を持たずに諸国民への呼びかけを聞くならば、恐れで満たされる。しかしまだ見ていないことを確信する神への信仰によってこの言葉を聞くとき、主のものとされた私たちは救いの確信と感謝に満たされる。神を信じよう。
2019/11/29(金) 担当 高谷清師 詩 50:1―3 賛美 新聖歌 37
本詩編について月本昭男師は「本詩は、神ヤハウェがその民に向かって発する警告と告発の言葉を中心に編まれている。これを発する場面は天と地を「証人」とするヤハウェの法廷である。(中略)はじめに、「さばき主」ヤハウェによる法廷開設が描き出される(1―6節)。天と地を証人として呼び出したヤハウェは、「火」と「激しく嵐が吹く」なかで自らを顕現させ(1―3節)」『詩編の思想と信仰?』新教出版社2006、P319)と述べておられる。神が顕現される時、神は「黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。」と記されている。シナイにおいて神が顕現された時「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出 19:18)と記されている。イエスの復活の時、主の天使を見た番兵たちについてマタイは「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタ28: 4)と記している。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(マタ28: 4)と述べている。神は大いなる力と権威をもってご自身を顕し、御言葉の真理を明らかにされる。人はこれに抗し得ない。御言葉の真理を深く受け止め、従おう。
2019/11/30(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 21:12-13 賛美 新聖歌 197
イエスが神殿に入って行かれた時まず目に入ってきたのは礼拝のために神殿に上って来る人々を相手に両替をしたり鳩を売って暴利をむさぼっている人々の姿でした。この光景を目にされたイエスは、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。そして「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言われました。神殿は神の臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所であって肉の欲を追及する場所ではありません。教会では霊と真理をもって礼拝をささげましょう。
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