2020/3/16-21

2020/3/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 聖歌 91

 パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べている。神の身分であられ、天の御座に着いておられた御子は父なる神の恵みのご計画に従い、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、十字架の死に至るまで従順であられた。最後の御業である十字架を前にしてイエスは「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」と祈られる。この「業」について森野善右衛門師は「この「わざ」とは、「さばくこと」と「命を与えること」であり、そのことがイエスの「権威」の実現なのである。」(説教者のための聖書講解?33P13日本基督教団出版局1980)と述べておられる。パウロは「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(ロマ 11: 22)と述べている。十字架は神の厳しさ・裁きと、慈しみ・「命を与えること」、イエスの「権威」を啓示している。
 
2020/3/17(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書6:9-14  賛美 新聖歌166
 これほど厳しい神の姿に驚く。信じる者の砦であり盾であるはずの神からこのような容赦ない裁きとしての死が送られ、救いを求めて神の名を呼ぶことすら許されず、呼び求めたならば救いではなく逆に更なる裁きと死を招く状況にただただ驚き、圧倒され、混乱する。なぜこのように感じるのだろうか。それはこのような神の裁き主としての姿が信じる者に向けて現されるという警告を信仰生活において聞く機会が少ないからではないだろうか。私たちはただ神から利益を引き出すためだけに信じているのではない。そして同時にただ怯えながら生きるために神を信じているのでもない。
 神は愛する者たちに対して明確に神を畏れ、従い、真心から神に仕えるように求めておられる。それが行われないときに裁き主としての神の姿に私たちは出会うのである。これほどの裁きの言葉を聞く前に、私たちはみ言葉に照らし、御霊に導かれて主を畏れ、敬い、愛し、神の前に聖められた者として進みゆこう。
 

2020/3/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17: 1-5 賛美 新聖歌 202

 イエスは永遠の眼をもって「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られる。イエスが父なる神から託された使命は十字架において完遂された。それ故に「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。」と言われるのである。この時点においては弟子たちはイエスの祈りを理解できない。弟子たちがこのイエスの祈りを理解できたのは聖霊降臨以降である。私たちは今、聖霊の臨在くださる時代に生かされていることを感謝しょう。
イエスが求められる栄光、それは「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光」である。この言葉からイエスが永遠のお方であり、真の神であられることを知っておこう。それは永遠の命を得させるからである。
 
2020/3/19(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:1-3  賛美 新聖歌355
 この幻をはじめに、アモス書には5つの幻が記されている。迫り来る逃れられない神の裁きの到来を伝えるこの幻の中で、アモスは自らこの幻を記し、大胆にも神との直接の対話を通して裁きの撤回を求めて民のためのとりなしを行っている。第一の幻で見たのは二番草の頃に飛来するいなごの大群であった。この時に食べつくされて収穫が奪われれば、イスラエルの民に残されるものはなく、直ちに生活に窮する。その深刻さを知るアモスは神との親しい個人的関係に立って赦しを願い、取るに足らない小さな存在であるヤコブに対して憐みを求めている。アモス書において正義を求めておられる神(5:24)に対して義を貫く神の裁きの前に立ち、アモスは神の恵みと慈しみを求めてとりなして祈る。その祈りをこの幻において神は聞いてくださり、アモスの願いを聞き入れてくださった。
 私たちもしばしば悪を行う人々と神との間に立ってとりなしの祈りをささげる。とりなし手としては神がこの祈りを聞いてくださるという保証がないままで神の恵みを信じて祈る。その時に前提とされるのはとりなし手と神との普段からの親しい信頼関係である。常にとりなし手として備えが整っている者でありたい。
 
2020/3/20(金) 担当 高谷清師 詩 51:8  賛美 聖歌 501
 詩人は「あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。」と詠う。この箇所を岩波訳は「じじつ、あなたは真実を内奥で悦び、/隠れた所で知恵を私に知らせて下さる。」と訳している。A. ヴァイザーはこの箇所を「ご覧下さい、あなたは心の奥の真実を愛し、/隠れた所でわたしに知恵を教えられます。」と訳し「およそ神の道を歩もうとする者は、心の奥のすみずみまで立ち入って、人生のもっとも目につかないところの諸事情を容赦なく暴露する真理を恐れてはならないのである。それどころか、祈り手にとっては、深くへり下って自分の罪を認めることこそ、このような悔い改めの第一段階であり、神の意志が実現する証拠である。この関連から見て、次の句「ひそかな所でわたしに知恵を教えられる」は、作者が神の本質と自分自身の罪の性質との深い認識に至る道を表していると思われる。(『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATD・NTD聖書註解刊行会1985、P79)と述べておられる。パウロは「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(?コリ2: 10)と述べている。私たちの祈りは自分を閉ざしまま自分の要求をぶつけるものであってはならない。自分の全てを神の前に開く時、神は私たちの心を探り、知恵を示し、真理へと導いてくださるのである。
 

2020/3/21(土) 担当 高谷由紀子師 創 39:21-23 賛美 新聖歌 355

 ヨセフは神様を信じて生きていました。しかし、兄弟たちに憎まれ、エジプトに売られ、異郷の地で孤独な生活を強いられていました。更に無実の罪を着せられて投獄され、つらい生活を強いられていました。しかしヨセフは信仰に立ち、誠実に歩みました。主はこのようなヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らってくださいました。それによってヨセフは人々の信頼を勝ち取りました。聖書は「神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」(詩 32:10)と述べています。常に神様に信頼しつつ歩みましょう。