2020/5/25-30
- 2020.05.25
- ディボーションの友
2020/5/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 427
イエスを捕らえる為に遣わされた者たちが来た時イエスは進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。イエスを捕らえる為に遣わされた者たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。「わたしである」と言う言葉について桑原昭師は「ヨハネが「エゴー エイミ」というギリシャ語をイエスの答えの言葉として書いた時、彼自身の気持ちの中に、また七十人訳の聖書に親しんでいた当時の人々の耳に、それは特別な響きを持っていたのではあるまいか。それは七十人訳聖書では聖なる神の名を表わす言楽でありハ出エジプト記三・一四〉、イエスご自身、自らの神性の権威を含蓄するものとして、この福音書の中で繰り返し名乗ってこられた定形語なのである。この場面でも、この言葉の中に初代教会の人々がイエスの神性の主張を聞きとめていたと考えることは不自然でない。」(説教者のための聖書講解No33P29日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは神であられる。
2020/5/26(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書10節〜14節 賛美 新聖歌222
エドムへの厳しい裁きの理由が明言される。エドムの罪は兄弟であるユダに対する略奪と暴虐であった。それは血縁関係にある民への道徳的な責任以上のものであり、神に対する罪であった。具体的にはエルサレムが敵によって陥落したあの日に民の苦しみを喜んで見物していたことであった。それはエルサレムが陥落したときの一回の出来事にとどまらず、「災いの日」にと語られていくように鮮明に記憶され、永遠の裁きの時に問われる罪として残る。
これはただ兄弟げんかをしてはいけないという教えではない。エドムの行いを彼らの感情、視点からだけ見るのではなく、神の御心のもとに見るとどのような行い、罪であったかと考え、その罪の責任を問われるというものである。日々の生活の中での振る舞いが自分の感情や時代の状況によって左右されるものではなく、全てを治めておられる神の御手の中で喜ばれるものかという視点で考え、罪を避ける歩みを求めよう。
2020/5/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 18
ヨハネは「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」と記している。この箇所について桑原昭師は「ヨハネがこれを記すことでもって言い表わそうとしていることはイエスの神的権威であり、誰も「イエスの意志に反して彼を捕えることはできず、ただ彼の自発的な十字架の受容によってのみそうすることができた」(フィルソン)ということである。」(説教者のための聖書講解No33P29日本基督教団出版局1980))と述べておられる。
イエスの復活に際しても「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」(マタ 27:63-64)とのファリサイ派の人々の要請を受けてローマ兵がイエスの墓を見張っていたが、復活の現場においては「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタ 28:4)と記されている。イエス逮捕に始まるイエスの受難も神の業であり、神の御心なくしては起こらないのである。今を生きるキリスト者においても、我々の目にはいかに不都合に見えるとしても、神の許容なくしては起こらないのである。
2020/5/28(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書15節〜18節 賛美 新聖歌35
エドムへの個別的な裁きの告知を離れて「主の日」に起こる全ての国々への神の審判が語られる。神の御手の中にある全ての国々が神の支配のもとにあってその罪に応じた裁きを免れることはない。神に対するすべての人々のすべての罪が義なる神によって公平に裁かれる。その時には悔い改め、贖われることなく罪が放置されることはない。裁きの時には神が臨まれ、力強く御力を現される。しかし同時に神の憐みにより、主の臨在の場所であるシオンは聖なる場所とされ、そこに救いを求める人々は救いに与る。すべての者が神の裁きに苦しむとき、命と救いはただ神のもとにのみ見出される。そして神の御もとに歩み出て救いを求める者は憐みによって救われる。
罪の赦しと回復は時の権力者や大国に属するものではない。それは神のみに属し、悔い改める人々に与えられる。「自分は大丈夫」と罪から逃れようとするのではなく、神の前に自分の歩みを日々確認し、神に喜ばれないこと、神に背く罪が示されたならば常に神のもとに立ち帰ろう。
2020/5/29(金) 担当 高谷清師 詩 52:7 賛美 聖歌635
3−6節において「力ある者」の所業を告発した詩人は7節において彼らに対する神の裁きを宣言する。「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」と。本文を記しているその最中、この詩篇を地で行くような事件が報じられた。一検察官僚の事件である。彼は自らの利得のために権力に忖度し、限りなく黒と思われる者を白とした。忖度を受けた最高権力者は彼のために法を変更し、彼を検察の上級の座に据えようとした。しかし、そのたくらみは一週刊誌の報道によってあえなく潰え去った。彼は辞任を余儀なくされ、内閣支持率は急落したと報じられている。
横暴の限りを尽くす「力ある者」に対する裁きが彼の在世中に起こるとは限らない。ヘブライ人への手紙の記者は「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。」(ヘブ 11:35-38)と述べている。我が国においても多くの信仰の先達たちが信仰の故に理不尽な生涯を強要されてきた。今もその渦中におかれている人があるかも知れない。しかし、神はすべてを知り、ご自身の時に行動される。
2020/5/30(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 新聖歌 446
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これはイエスの宣教の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人々は平穏無事に暮らしている人々に比べて平素の行いが悪く、罪深い人々だと考えられがちです。しかし、イエス様は何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた時「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と教えられました。また、パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23)と述べています。人は皆罪のもとにあり、悔い改めて救い主なるイエスを信じることによってのみ、救いを得るのです。
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