2020/7/20-25
- 2020.07.20
- ディボーションの友
2020/7/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:1-7 賛美 新聖歌 222
イエスに何の罪も見出さなかったピラトは、過越祭にはだれか一人をユダヤ人たちのために釈放するのが慣例になっているのをとらえて「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」と問いかけた。しかしユダヤ人たちは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返してピラトの提案を拒否した。そこでピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。更にイエスを兵士たちの手に委ね、兵士達はあらん限りの恥辱を加えた。ピラトは残酷なむち打ちの刑を科すことによってユダヤ人たちを満足させ、彼らがイエスの釈放に同意するのを期待したのである。その後ピラトは出て来て「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」と言った。しかし祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。その理由として「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」と言った。
ここに神の言葉を形式的に読むことの恐ろしさを見る。イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と教えられた。律法は霊により、愛によって読まれるべきである。
2020/7/21(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:1-5 賛美 新聖歌238
1章から2章での経験を通して、ヨナは神に逆らうことが不可能であることを知った。ヨナには人間的にニネベの人々を憎み、救われないようにと願う十分な理由があった。しかし神が悪に満ちているニネベへの使者としてヨナを選ばれた時に、ヨナには逃れる余地はなかった。ついにニネベの町に行き、非常に大きな都に対して語った。しかしそれは悔い改めを促し、神の恵みを受けよという本来の物とは全く異なるメッセージであった。40日後に滅びるという言葉を聞いて誰が喜ぶだろうか。このような宣言の中にいやいやながら仕方なく神の言葉に従っているヨナの心が現れている。それにもかかわらず、これを聞いたニネベの人々は悔い改めた。
神に従うときに、心から喜んで従うことが最善であり、そうできるように祈りながら神の導きを求める。しかしたとえいやいやながらであっても神の言葉が宣言されるときに、人々の悔い改めと救いが起こる。神の言葉の力の大きさを知る。この言葉を今も罪に沈む人々に伝える働きを委ねられている私たちは、心から喜んで神に従い、伝えていきたい。
2020/7/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:8-12 賛美 新聖歌 341
ピラトは、この言葉、「神の子と自称した」を聞いてますます恐れた。彼はこの言葉をユダヤ人が使ったのとは全く違った意味に理解した。ジョン・C・ライルは「ローマ人である彼は疑いもなく、神々が地上に下って人間の姿で現れるというギリシャやローマの異教的な神話からの物語を、たくさん聞いたり読んだりしていた。自分の前にいる囚人はそれかもしれない。この思いは彼の心に新たな恐れを引き起した。(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P239」と述べている。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタ 27:19)と言う妻からの伝言と合わせ考えて彼の心には大きな不安が広がったのである。ピラトは再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに問いかける。しかし、イエスは答えようとされない。業を煮やしたピラトは「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」と迫る。これに対してイエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」と言われる。
イエスは神によって遣わされたお方である。従って世の者、神以外の者は彼に対して何の権限もない。世が十字架につけたイエスを神はよみがえらされた。地上最強の番兵たちも何の力もなかったのである。世の者を恐れず、神を信じて歩もう。
2020/7/23(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:4-9 賛美 新聖歌284
ヨナ書の最初から神の民の代表としてのヨナと、異邦人の姿を比べてみると、あべこべの状況が続いている。ヨナは神を知っていながら、嵐の中で神に祈らなかったが、異邦人である水夫たちはヨナの証しを聞いて真の神を恐れて祈った。どちらが本当に神を信じているのかという状態であった。3章ではヨナのいやいやながらの滅びだけを告げる言葉を聞いたニネベの人々が即座に悔い改めている。彼らが心からそうしている様子はヨナの姿とは違って丁寧に語られている。彼らは実際に行いを改めている。また、このように真の悔い改めを示せば神は絶対に救ってくださるという確信を持ち、半ば強制的にそうさせるような態度ではなく、滅びを逃れさせてくださるかもしれないと、神に望みを置いたへりくだった姿勢でそのようにしている。これは神を信じている人々の素直な信仰の中に見たい姿である。
イスラエル人だから神が救ってくださる、異邦人は神の恵みを受けられないと考えるのは人間が傲慢にも作り出した思いである。神は信じる人もそうでない人も等しく愛し、赦しを与えることを望んでおられる。福音を伝えるときに、神の本当の御思いを忘れず、全ての人の救いのために伝えよう。
2020/7/24(金) 担当 高谷清師 詩 55:2-3 賛美 聖歌 233
はじめに詩人は「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。」と祈る。鍋谷尭爾師はこの詩を「都市生活からの逃亡」と呼び、「ダビデはエブス人からエルサレムを奪取し、城壁を築き首都としました。ソロモンはこれを強化し、以後、紀元前五八六年にネブカデネザルによって破壊されるまでは、エルサレムは度々の外敵の侵入から守られてきました。しかしエルサレムの城壁が堅固になり、都市の安全と繁栄が保障されればされるほど、内部は腐ってゆくのです。表面的には安全でしあわせな町も、いったんその中を見ると、「暴虐と争い」(9節)、「罪悪と害毒」(10節)、「破滅」「虐待と詐欺」(11節)が満ち満ちているのです。しかも、最も親しい友が裏切り、だまし合うのです(12−21節」(『詩篇を味わう?』P136いのちのことば社 2006)と述べておられる。エルサレムのみならず、都市や組織の安全と繁栄が保障されるようになると人心は神から離れ、人間的な地位、栄誉の追及へと向かい、御言葉の実質は捨てられ、奸計がはびこり、御言葉に忠実に生きようとする人々は苦難にさらされるのである。しかしそのような人々にも神に嘆き求める門戸は開かれている。詩編は「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50: 15)と述べている。
2020/7/25(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ4:7-15 賛美 新聖歌 172
使徒パウロは福音宣教の生涯を送りました。その生涯は計り知れないほど困難なものでした。?コリ11:16-28を読むとパウロが想像を越えた苦難を受けたことが分かります。「死ぬような目に遭ったことも度々でした。」(?コリ11:23)と述べています。しかしパウロは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」と述べています。パウロは死人の内よりよみがえられたキリストの復活の力によって勝利を得ており、主の命が現される為に生きたのです。私たちもパウロに倣ってキリストの命を現わす歩みを続けましょう。
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