2020/8/17-22

 2020/8/17(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 458

 ピラトの書いた罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。これを見たユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と要求した。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と言って要求には応じなかった。これについてカルヴァンは「ピラトが自分のしたことをかえずにいるのは、神の摂理のせいにされなければならない。それというのも、かれらは疑いもなく、かれの決心をかえさせることができるかどうか、手をかえ品をかえて試みたであろうからである。だから、かれが少しもひるむところがなく、確固として踏みとどまっているように、神によって支えられていた、と知ろう。ピラトは,祭司たちの願いに譲歩せず、かれらに誘惑されるままになってはいなかった。むしろ、神はかれの口を通じて、その子の国がどんなに確固として不動のものであるか、あかしを立てたのである。ピラトのはり札において、毒をふくんだ敵たちのどんな策動にも微動だにさせられないキリストの国の、かくも偉大な堅固さが明示されたとすれば、神が自分の道具として聖別した口や手を備えている預言者たちのあかしに対して、わたしたちはどんな意見をもつべきだろう。さらに、ピラトの例はわたしたちに、わたしたちのつとめについて教えてくれる。すなわち、わたしたちは、つねに不屈の態度を持して、真理を維持しなければならないのである。世俗的なこの男は、自分がなにをしているか知らないながらも、主イエスについて自分がただしく真実に記したものを、少しも撤回しようとはしていない。だから、わたしたちが、威嚇や危険におびやかされるままに、神がその霊によってわたしたちの心にしるしづけたこの教えの告白を、躊躇するようであれば、それはわたしたちにとって,なんという恥辱だろう」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下P594595新教出版社1965)と記している。世を恐れることなく常に真理に歩もう。

 

2020/8/18(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:9  賛美 新聖歌209

 照り付ける陽ざしに晒される大変さをこの季節、私たちはいやというほど体験している。ヨナが東風の熱風と照り付ける太陽から逃れられる木を与えられた喜びとそれを取り去られた時の不満が一気に噴き出した姿を前回見た。不満と不快感のゆえに即座に「死ぬ方がまし」とまで断言するヨナの姿に思わず苦笑が漏れる。素直と言えば素直だが、なんとも自分勝手で未熟である。9節にはその時の神とヨナの対話が記されている。神の言葉はヨナをねぎらう言葉や励ます言葉ではなかった。ヨナ自身の心に向き合うことを促す問いであった。しかしヨナは自分の事情に捕らわれている。

 私たちが困難に直面してもがいているときに神は解決の道を自動的に与えるのではなく、「あなたは正しいのか?」と問われることがある。切羽詰まっている私たちは客観的に状況を見て反省することが容易にできない。しかし「私の気持ちや応答は正しいのか?私は神の目から見て正しいのか?」と問うことにより、神との関係が一層深まるのではないだろうか。

 

2020/8/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 105

 「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」について西間木一衛師は「イエスがユダヤ人だけでなく、世界の主であることを示している。クルマンは、キリストを中心とする二つの同心円という表象で、キリストの王権を表わしている。教会は内の円であり、世界は外の円であって、その両方は共にキリストを主としている。しかし、イエスが世界の主であることを知っているのは教会であって、この世界はそのことを知らない。(中略)十字架のイエスは勝利者であり、また栄光の主である。この栄光の王を信じ仰ぐ集団である教会は、この世に、イエスこそ主であることを知らせなければならない。(中略)教会が、イエスは主であることをこの世に知らせるとは、教会がこの世の一大勢力となり、栄光の教会としてこの世に君臨することではないはずである。キリストが主であるということは、あくまでもキリストが主として支配しておられるということであって、教会が世界を支配するということではない、と言われる通りである。イエス・キリストが主であるとは終末論的な事柄であって、神の国の到来は、教会が大きいか小さいかにはよらないのである。伝道が困難な土地にあって、信徒の数が一向に増えない、いやそれどころか逆に減ってゆくようなことがあっても、教会はキリストの体として存続するのである。どのように信徒の数が少なかろうとも、また宣教の業が思うようにいかないとしても、決して失望することはないのである。何故なら、栄光の王はどん底である十字架から支配しておられるからである。イエスの十字架は、キリスト者にとって、あらゆる敵対する勢力に対する勝利であり、王としてのキリストの支配の始まりだからである。」説教者のための聖書講解No3355本基督教団出版局1980)と述べておられる。ある会合において人材不足と経済的逼迫によって無牧の教会が増加していく現状を前にして多くの出席者が「このままでは教会が消滅するのではないか」との危惧を口にした時、ある隠退牧師が「そのようなことは絶対にない。個教会の中には姿を消す教会があるとしても、教会はキリストの体であり、神に起因するからである」と言われた言葉に感動を覚えたことを思い起こす。キリストにあって、信仰によって進もう。

 

2020/8/20(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:10  賛美 新聖歌437

 神からヨナに対する最後の語り掛けでヨナ書が閉じられる。ふて腐れているヨナを叱りつけるのではなく、ヨナの怒りが理不尽である事実を突き詰める。ヨナは自分で労してもおらず、愛情を持ってもいないが、自分に都合のよい道具としてのトウゴマの木を惜しんでいる。ならば神はニネベの民の命をどのようにお考えになるのだろうか?選民意識の強かったヨナにとってユダヤ人は特別であり、ユダヤ人こそが神の恵みの対象であると信じていた。だからこそニネベへの憎しみが増した。しかし異邦人は救われるはずがないというヨナの狭い理解に対して神は挑戦される。罪と悪に満ち、ユダヤ人を苦しめるこのニネベの人々でさえも、神は惜しまれるのだ。なぜなら神の被造物として愛を注がれるのは、ユダヤ人がそう信じていたように、ユダヤ人だけではないからだ。

 神の愛は人間の想像の範囲を超えて広く、深い。ユダヤ人も、今の時代に生きるクリスチャンも、異邦人や未信者よりも先に神の愛を知った一人の神の被造物である。私たちは神を信じない人、敵対さえする人々を憎むのではなく、彼らも神の愛の対象であることを知り、愛をもって福音を伝えよう。

 

2020/8/21(金) 担当 高谷清師 詩 55: 23  賛美 新聖歌 196

 本詩の作者は、都にはびこる暴虐と害悪と欺備、「敵」でも「私を憎む者」でもなく、信仰さえも共にした友の裏切りに遭遇し、苦しみの中で神に向って祈り、嘆き求めてきた。そのような祈りの中で「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。」という言葉へと導かれる。これは迫害者達の中に在って苦しみ、呻き、神に訴える魂が聖霊によって導かれた答えである。ここには作者が求めた迫害者への裁きは記されていない。詩編62:9には「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」と記されている。 私たちの歩みは多くの試練、艱難、苦難がつきまとう。それが全く不信の者からのこともあれば「信仰者」を自任する者からのこともある。そのような時、神のみ前に心を注ぎ出して祈ろう。聖霊はあなたの心に導きを与え、平安を満たしてくださる。

 

2020/8/22(土) 担当 高谷由紀子師 ヘブ 13:20-21  賛美 新聖歌 225

 八月は広島、長崎の原爆の日、敗戦の日と太平洋戦争に関する記念日が続き、平和が語られます。全世界で平和が求められ、実現のためにあらゆる分野で努力が続けられています。これらは平和が人間の知恵によって実現できるかのような錯覚を抱いているためではないかと考えられます。聖書は「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:20)と述べています。ヘブライ人への手紙は「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」(ヘブ 13:20-21)と述べています。真の平和は一人一人が贖いの恵みによって神との和解を得るところから始まるのです。