2020/10/19-24
- 2020.10.19
- ディボーションの友
2020/10/19(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:11-18 賛美 新聖歌 38
二人の弟子たちが帰って行った後もマリアは墓の外に立って泣いていた。彼女はイエスに七つの悪霊を迫い出していただいたのであり、イエスに従い、仕え、イエスの十字架の許に立ち、イエスの遺体が墓に納められるのを見届けた。彼女にとってイエスは何者にも代えがたいお方であった。イエスの遺体が見当たらないことは彼女の心に大きな喪失感と、激しい悲しみをもたらした。そのような中でもう一度墓の中に目を向けると、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」と記されている。彼女が振り向いた時、墓から目を転じてイエスの声を耳にした時、復活されたイエスに出会ったのである。ルカは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(ルカ 24:4)と記している。肉によってではなく、信仰によって復活のイエスに出会うのである。
2020/10/20(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:8 賛美 新聖歌267
民を惑わす預言者を辛辣に批判した後でミカは自分自身の決意を述べる。これはミカ自身が今まで行ってきたとおりに、真実でない預言者や指導者たちに囲まれている中でもゆるぎなく神の言葉を語り続けていくという宣言である。神を信じる人であれば当然なすべきことを語っているのだが、それを実行することは容易ではない。様々な反対や妨害や苦難を乗り越えて初めてこのことができる。そのためには預言者個人の決意と努力も必要だが、それ以上に大切なことは「力と主の霊」(3:8)に満たされることである。預言者が自分の理想と自分の方法によって語るならばそれは主の言葉の宣言ではなく、自己実現の為の主張になる。また、主の御心を確信して語りたいと願っても、大多数の人々が神に逆らっている状況では、神の力と導きがなければ語ることはできない。
時代の流れや多くの人々の生き方に流されることなく、神のみ言葉と祈りによって主の御心を確認し、主の力によって正しく語っていこう。すべてのクリスチャンがそれぞれの場で世の光となることができるように主に求めよう。
2020/10/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:11-18 賛美 新聖歌 369
心の目が開かれ、復活されたイエスを見たマリアは喜びに満たされ「ラボニ」と叫んでイエスにすがりつこうとする。それに対してイエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と言ってと彼女の行動をとどめる。この時点においてはイエスにおける神のご計画は途上である。死から甦られたイエスは、天に昇り、神の右の座に着き、約束された聖霊が遣わされることによって完結する。死から甦られたイエスに出会ったマリアは十字架に架かられる以前と同じように肉なる存在として、肉によって理解しょうとしたのである。このことをイエスは戒められたのである。パウロは「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(?コリ5:16-17)と述べている。天に昇り、神の右の座に着いていられるお方は、霊により、信仰によって知るべきお方である。
2020/10/22(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:9-12 賛美 新聖歌343
再度、指導者たちの罪が指摘されている。彼らは正義を教えながら自分の行動ではそれらを踏みにじっている。本来保護しなければならない民を苦しめている。さらにひどいことに、彼らはこれだけの悪を行いながらも神に頼り、神が共にいてくださるから守られると確信している。彼らは神に従っているのではなく、神を彼らに従わせ、利用している。しかし彼らには恐らくその自覚すらなかったのであろう。あまりに罪深い生活に陥ってしまい、自分たちの行う悪を知ることもなく、神を利用していることにすら気付かない。
なぜこんなにひどい状況に陥ったのか?と驚く。そして、まさか私はこのような状況に陥ることはないと思いながら私たちはこのミカの言葉を読んでいるのではないだろうか。しかし私たちもこの指導者たち同様、罪の性質をもった存在であり、ただ神に罪を赦していただき、哀れみの中に生かされている存在にすぎない。彼らと同じ罪に陥らないよう、また、彼らと同じように神を利用することがないよう、日々み言葉に照らして歩みを確認しよう。
2020/10/23(金) 担当 高谷清師 詩 57:1-6 賛美 新聖歌 165
詩人は「わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭いのです。」と、自らの苦境を訴える。そのような祈りの中で天に目を向けた詩人は、そこに輝く神の栄光を見る。そして「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」と祈る。
今日、私たちの視線が地上の出来事にのみ捕らわれる時、全世界を覆う新型コロナウイルス禍、社会的格差の拡大、全体主義国家、自由主義国家を問わず進行する政権による学問・思想信条への介入と統制、―彼らの歯は槍のように、矢のように、舌は剣のように、鋭いのです。―あらゆる分野における愛の喪失・・・・・等々、悲観的材料が世を覆っている。しかし、御言葉に目を向ける時、天地の支配者は、天地の創造者にして支配者、善にして愛であられる神である。詩人と共に天に目を向け「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」との祈りを深めよう。
2020/10/24(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 14:3-9 賛美 新聖歌 391
イエス様がベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたときのことでした。突然、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけました。居合わせた人々の何人かが「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言って彼女を厳しくとがめました。それに対してイエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われました。
この女は信仰によって行動し愛と誠をもって仕えました。それがはからずもイエスの葬りの備えになったのです。自らの損得ではなく、愛と誠こそがイエスに仕える道なのです。
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