2020/11/23-28

 2020/11/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:24-26 賛美 新聖歌 426

 ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて息をひそめていた弟子たちのところにイエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。半信半疑の弟子たちにイエスは手とわき腹とをお見せになった。今、弟子たちの真ん中に立っておられるお方は、十字架上に刑死したあのナザレのイエスであることを知って弟子たちは喜びに満たされた。その場にトマスはいなかった。復活のイエスと出会った弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た」と証しした。それに対してトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言った。この言葉に呼応するかのようにトマスも一緒にいる弟子たちの所にご自分を顕された。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われた。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。私たちは弱さを持つ身である。ともすれば不信仰に陥りやすい。しかしイエスはそのような私たちを支えてくださるお方である。試みの時にもイエスにより頼んで歩もう。

 

2020/11/24(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:1  賛美 新聖歌359

 この聖句は多くのクリスチャンにとって馴染み深いものである。主イエスの誕生について語るマタイ2:5に用いられているため、このミカ書の言葉を読むときに私たちは自然に主イエスのご降誕を思い起し、感謝しつつこの言葉を読むのではないだろうか。しかしよく考えてみればこのように読めるのは私たちが主のご降誕の後の時代に生かされているからである。ミカの時代は決してそうではなかった。この聖句も非常にあいまいに語っており、当時この言葉を聞いた人々は何を語られているのかを悟ることは難しかっただろう。エフラタは最も小さく、非力な者であった。誰が弱小氏族の子どもを支配者として選ぶだろうか。弱い者を選んで用い、その人を通してイスラエルを守り、救いに導くのはギデオンやサウルの例を見てもわかるように神の業であった。

 ミカの時代、イスラエルの国が滅びることも想像できない人々に、神はすでに将来のご計画を示された。ただ信仰によって受け止めなければ神の言葉を深く受け止めることはできない。それゆえ私たちは深い祈りと聖霊の導きと共に神の言葉を読み進めよう。

 

2020/11/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:24-28 賛美 新聖歌 355

 トマスの「わたしの主、わたしの神よ」と言う信仰告白についてジークフリート・シュルツは「イエスの復活の事実性とその人物の身元とを自分の手で確かめたいという願いを、トマスはこの真理の時に臨んで実行に移すことができない。自分の不信を超然と乗り越えたこの突然のイエスの出現に圧倒されたあまり、彼は、ただ「わたしの主よ、わたしの神よ」と言ってこの復活の主の現在を讃美・礼拝することしかできず、〔イエスの身体の〕検査を放棄する。こうしてトマスは、ヨハネ共同体を代表して、イエスの神性に対する信仰としてのその復活信仰を、告白しているのである。(中略)既にヨハネ福音書の冒頭でロゴス讃歌が「そのことばは神であった」と歌ったことを、いまこの福音書の結尾において、ほかならぬ懐疑家トマスが、告白するのである。人と成った者がその復活において再びその栄光に帰り、初めにいた所へ戻るのである。」(NTD新約聖書註解ヨハネによる福音書P471NTD新約聖書註解刊行)と述べている。イエスは真の神であられる。検証すべきお方ではなく、信じるべきお方である。信仰によってイエスに栄光を帰しつつ、共に歩もう。

 

2020/11/26(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:2  賛美 新聖歌19

 1節で語り始められた神ご自身が与えて下さる新しい統治者とその時代について少し踏み込んで語られる。イスラエルは神に捨て置かれる時代を経験する。神の民として召し集められ、出エジプトの御業と救いを経験し、神の言葉を中心にその歴史を歩んできたイスラエルにとって、神から捨て置かれるということは想像もつかないことであった。しかしそれは実現し、神は彼らを捨て置かれ、散らされる。彼らがイスラエルに帰ることができるのは神によって最も弱い氏族の中に与えられる特別な子、すなわちメシアが与えられることによる他はないのである。

 人々が苦難を現実に経験する前から神は確かに危機に際してご自身が救い主を送り、イスラエルを連れ戻すと語っておられた。人間の目には見通せないこともすでに知っておられ、罪に対しては公平な裁きを与え、それを通して悔い改めの機会を与え、愛と憐れみによって弱い者を神との関係に連れ戻してくださる、大きな神の愛がある。そして救い主をお迎えしたこの恵みの時に生かされる私たちはただ神の救いの御業によって主のもとに連れ帰っていただいた。すべてを備えて下さる神に感謝しよう。

 

2020/11/27(金) 担当 高谷清師 詩 58:4-6  賛美 新聖歌 369

 本詩編について月本昭男師は『神はいまして、この地にて審かれる』との表題を付し、鍋谷堯爾師は『さばく神がおられる』との表題を付しておられる。4-6節では「神に逆らう者」について述べる。彼らは「母の胎にあるときから汚らわしく」「母の腹にあるときから迷いに陥っている」。「蛇の毒にも似た毒を持ち」「耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで、蛇使いの声にも巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない」のである。これは原罪を持つすべての人の姿である。パウロもまた「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」(ロマ 3: 23)と述べている。イエスは彼らについて「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(マタ 23:37)と嘆いておられる。ダビデは不義を働き、王権を利用してウリヤを殺し、それを隠蔽しようとした。万事うまくいったように見えたが、神はそれを見逃されなかった。信仰の先輩面をして御言葉に対する背きを正当化しょうとしていないだろうか。『さばく神がおられる』。自らを吟味しょう。

 

2020/11/28(土) 担当 高谷清師 ヨハ 20:24-28 賛美 新聖歌 356

 復活のイエスに向って「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したトマスに対してイエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と語っておられる。この箇所についてジョン・C・ライルは「この文全体の意味は、次のようになる。「トマス、あなたは自分の目でわたしを見、自分の手でわたしにさわったので、やっと信じました。それは結構です。しかし、もし一週間前に、わたしを待たずに、十人の兄弟たちの証言によってわたしを信じていたなら、もっとよかったのに。今後は、わたしの国では、信じる前にまず見ることを強く要求する人たちよりも、見ることなしに、ふさわしい証言によって信じる人たちのほうが祝福され、栄誉を受けるものであることを覚えておきなさい。」(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P446」と述べている。

 イエスは全ての御業を成し遂げて天に帰り、父なる神の右の座に着かれた。そして私たちに助け主として聖霊を遣わしてくださった。このお方は目には見えないが、常に私と共に居てくださる。信仰によってこのお方と共に歩もう。