2020/12/14-19
- 2020.12.14
- ディボーションの友
2020/12/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13 賛美 新聖歌 384
「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。」と記されている。この「百五十三匹」と言う数字については古来、種々の解釈がなされてきた。大宮溥師はそれらの解釈のいくつかを紹介した後、「この福音書では、主の召したもうたキリスト者の群れを指すものと思われる。主の命令と委託によって宣教がなされる時、伝道者の働きは主の働きとなり、このような成果を与えられるのである。ここに宣教の希望がある。(説教者のための聖書講解No34P38日本基督教団出版局1981)と述べておられる。今日、日本における宣教は非常な困難に直面している。戦後、統計的には大きく伸びた聖徒の数は増加率の鈍化のみならず、減少傾向を示しているのではないだろうか。今こそ、謙虚に神のみ前にひれ伏し、自らの計画を神のみ手に委ね、御心を求め、それを自らの心とし、聖霊の満たしを求め、聖霊の導きのもとで宣教の奉仕に仕えて行こう。
2020/12/15(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:9-10 賛美 新聖歌165
「その日が来れば」(5:9)と述べながら、神がイスラエルの歴史に力を顕して彼らを回復なさる最後の時に主御自身が何をなさるのかを語っている。5:9-14において最終的に神が成し遂げられるのは、イスラエルの民が神に完全に従い、神と共に歩むための妨げとなっているあらゆるものを取り除かれてきよめることである。そのためにまず神が排除されるのは軍事力である。イスラエルがただ神だけに頼ることの妨げとなっている軍事力を神はすべて取り去られる。人間は自分の能力で何とか状況を好転させられる可能性があれば、自分の責任において、自分の能力をまず頼みとする。しかし神はあらゆるときにまず神に信頼を置き、ことをゆだねることを求められる。人々が自分であれ周辺諸国であれ、武力に頼るならば、それを取り除き、神に頼るように促される。
私たちは神を信じると告白しながら、自分やほかの人々の手にある力を信頼していないだろうか。いうまでもなく、与えられたものを用いることは大切である。しかしそれらを究極の助けとして、神に対する信頼を失くして努力するならばいつの間にか神の御心から逸れてしまう。神の力により頼もう。
2020/12/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13 賛美 新聖歌 399
ヨハネは「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」と述べている。大宮溥師は「教会は多種多様の人々から成り立っているが、しかも一つであって、分裂しない。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エベ四・五―六)。われわれの現実はこれとは程遠い状態である。世界にあって和解の使命を与えられている教会自体が対立と分裂の状態にある。われわれはこの現実に驚きと痛みとを感ぜざるを得ない。(中略)日本の教会は、公同の教会の実現のための努力をせず、教会の一致を妥協と考えておりはしないか。しかし真の一致は、妥協という弱い網では達成できない。自分の小さな網をすてて、キリストの与えられる網を取らなければならない。信仰告白と今日における教会の使命を新しく受けることによって、主の教会の一致が与えられるのである。(説教者のための聖書講解No34P38日本基督教団出版局1981)と述べておられる。
ある人がいた。彼は自らはキリスト者ではなかったが、キリスト者である親友を持っていた。彼が親友とは別の教会に導かれ、洗礼を受けた時、牧師からその親友とは交わりを持たないように言い渡されたというのである。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と述べている。キリスト者になったが故に失う自由―ここに祈りの課題がある。
2020/12/17(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:11-14 賛美 新聖歌390
人々が神に頼ることを妨げるもう一つの要因は魔術や偶像などの人間が作り出した霊的な道具であろう。旧約聖書の時代、律法においても、預言者たちも繰り返し偶像礼拝を禁じ、排除を求めている。魔術もイスラエルでは厳しく禁じられていた。しかし人々の心は常にそのようなものに誘惑され、引き寄せられていた。偶像礼拝やまじないは気付かぬうちに人々の心に入り込み、深く根付いていくがゆえに困難な課題である。イスラエルの近隣諸国は真の神を知らぬ異教の民であり、偶像礼拝の宝庫であった。その中で育まれてきた宗教行事や偶像は文化という形で神の民にも入り込み、いつの間にか民の心を神から遠ざける躓きの石となっていた。
キリスト教国ではない日本でも常に伝統文化と異教のつながりの中でクリスチャンは大変難しい決断を迫られている。神のみを礼拝し、神との確かなきよい関係を保つために、異教文化に潜む異教礼拝を拒みつつ、日本人クリスチャンとして神と共に生きる道を、日々神の知恵により示していただこう。
2020/12/18(金) 担当 高谷清師 詩 58:12 賛美 新聖歌 281
詩人は「人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」と詠う。小畑進師は「およそ、悪をなす者が、この地には神の審きなどあるものか、とし、それゆえに悪をほしいままにするのですが、一方、正しい者も、世の悪の力ゆえに、たとえ神を信じていても、地には審きをなし得ざるかのように思い込んでいきます。神の主権を、天にのみ制限して、この地上には神の審きは及ばぬかのように思い込もうと傾きます。きっと詩人も、圧倒的な悪の勢いに、そんなことを感じていたのか。しかし、最後に言うのです。「まことに、さばく神が、地におられる」と。」(『詩篇講録上』P843いのちのことば社2007))神のみ名を口にし、聖書の句節を文脈から切り離して恣意的に用いて自らの欲心を満たす権勢を追及し、ほしいままにし、それにあやかろうと忖度する者たちの中に在って神の御心に真実に生きようとする人は苦難を強いられる。しかしパウロは「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(ガラ 6:9)と述べている。み言葉と聖霊に励まされ、真実であられる神を仰ぎ、屈することの無い信仰をもって歩もう。
2020/12/19(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13 賛美 新聖歌 201
イエスは海から上がってきた弟子たちに「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。そして、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスはかつて「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハ7:37-38)と教えられた。また「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハ 6:53-56)とも教えておられる。イエスの食卓に与ること、イエスとの深い交わりによって私たちは命に満たされ、それによってのみ、宣教は可能となる。日々、イエスとの命の交わりを深めよう。
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