2021/1/4-9

 2021/1/4(月) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:1-3 賛美 新聖歌 214

 2016/11/14から読み始めたヨハネによる福音書を先週で読み終えた。今週からはヨハネの手紙Ⅱを読んでいきたい。著者はここで「長老のわたしから」と述べている。「長老」という言葉についてヨハネス・シュナイダーは「教皇的な地位を有する司教職は当時まだ無かったから、「長老」という言葉が職名を意味していることはまずありえない。(中略)彼が長老であるというのは、教会の特別な職務としての長老職にある者というのではなくて、キリスト教信仰の最初の証人として特別な尊敬を得ていたということであろう」(NTD新約聖書註解10 公同書簡P407408 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。この手紙の著者は教会の指導者であり使徒であるヨハネであろう。著者はこの手紙を「選ばれた婦人とその子たち」にあてて書いている。「選ばれた婦人とその子たち」についてヨハネス・シュナイダーは「。婦人とは集会を指し、その子たちとは集会の成員を指すのである。集会がキリストの「実』あるいは「花嫁」であるという表象は、このほかにも原始キリスト教にその例がある(NTD新約聖書註解10 公同書簡P408 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。そして長老は「あなたがたを真に愛しています」と述べている。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ10: 11)と述べておられる。教会指導者と会衆とは真実の愛による関係であるべきである。

 

2021/1/5(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:1-6  賛美 新聖歌343

 民の腐敗は留まるところを知らない。農夫が一縷の望みを託して一粒の実を摘もうとしても見いだせないほどに、人々の中で正しい者を見出すことができない。ここで注意すべきは一人も見いだせないということである。このような時代の中に生きている人々であってもその時代に悪が満ちていることは認めつつも、自分は正しく自分だけが悪とは無縁であると考えているということが起こっていたのではないだろうか。しかし3節では社会の指導者や権力者たちも罪にどっぷりつかり、それを隠そうともしないと述べている。罪が満ちていく時代にも人々はどこかで自分勝手に神の憐れみが自分に臨むと考えている。しかし罪が増大する社会では信頼が失われ、愛が冷える中で対立が生まれる。ミカの時代だけではなく、主イエスも同じことを警告された(マタイ10:35-36, ルカ12:53)。

 今の時代も孤独死や無縁社会という言葉が飛び交っている。この時代の一員である私たちも、自分の姿を神の言葉に照らし、罪を告白して神の赦しを得てこの年を始めていきたい。絶望的な孤独が襲うこの時代に真の神の愛を伝える存在として用いられる者となりたい。

 

2021/1/6(水) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:1-3 賛美 新聖歌 212

 ヨハネは「わたしは、あなたがたを真に愛しています。」と述べる。この箇所について島田勝彦師は「この手紙がしたためられる根拠は、歪めず、装わず、偽りのない「真実」の愛である。「長老」の心からの愛が出発となる。強い師弟関係や人間的な愛情以上のものである。直訳すれば「真理において愛する」となる。ヨハネ文書において「真理」はしごく具体的である。それは神の愛の具現としてのイエス・キリスト自身である(ヨハネ3:2814:6)。故に「真理を知っている」とはグノーシス的知的認識や哲学原理の学習の結果を言うのではない。それは「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」〈Ⅰヨハネ1:1-2〉としてイエス・キリストの人格の中に見出し、信仰によって把握されるべきことである。即ち、「知る」ということは人格的な出会いの中に生まれる愛である。イエス・キリストとの出会いが私たちの内に神の愛の具体的実現をひきおこした時、真実イエス・キリストを認識したということになるのである。その「真理」とはイエス・キリストご自身であり、イエス・キリストは神の愛の受肉、「わたしたちのうちにとどまり、永遠にわたしたちと共にある真理」(ヨハネ14:27・Ⅰヨハネ4:16〉だからである」(説教者のための聖書講解No3631日本基督教団出版局1981)と述べておられる。キリスト者の愛は肉から出たものではない。信仰により、彼の内の内在されるキリストご自身である。

 

2021/1/7(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:7 賛美 ミクタム赤 42 「待ち望め主を」

 1-6節において人間の罪が社会で深まるにつれ、その結果自己崩壊と共同体の崩壊を招く状態に、神は人をゆだねられた。隣人も家族も信じられない、頼る者を見出せない。絶望の中にある人々には希望の一筋の光も存在しない。そのような中であえて救いと希望を語ることはできるだろうか。預言者は救いの兆しの全く見えない中で、信仰によって神を指し示す。人々を罪にゆだねられた神ご自身にこそ救いがあり、神は私の願いを聞いてくださると断言する。

 2020年は世界中が今までにない苦境に立たされた一年であった。人々は一様に2021年がより良い年になるようにと願った。実際に世界中でパンデミックを引き起こした病もそうであるが、人の心に満ちる罪の暗さも増している。互いに疑心暗鬼になるこの時代にこそ、救いは神にあるというミカの言葉をしっかりと受け止め、「我が救いの神を待つ。」と述べられているように、心を合わせて待ち望もう。

 

2021/1/8(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 聖歌 556

 詠い手は「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し/流血の罪を犯す者から救ってください。」と詠う。敵、悪を行う者、流血の罪を犯す者たちは、罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない詠い手を、その命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて打ち破ろうとして身構えている。小畑進師は「このように、無実の罪咎を着せられて、迫害されることも、人生の一つの現実です。ヨセフも、ダビデも、そして主イエスも。誤解、濡れ衣――これも人生です。」(『詩篇講録上』P853いのちのことば社2007))と述べておられる。これに対して歌い手は「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。」訴える。ヤコブは「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」(ヤコ 5: 4)と述べている。迫害者はうまくいったと思うかもしれないが、故なく迫害される者の訴えは主の耳に達している。

 

2021/1/9(土) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:1-3 賛美 新聖歌 89

 更にヨハネは「わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」と述べる。この箇所について島田勝彦師は「「真理」を知る者はこの「愛」を共有する。発信者は受信者とここにおいて一つであり、また受信者は、発信者とだけでなく、他のイエス・キリストを知っている者とも一つの愛を持つのである。」(説教者のための聖書講解No3631日本基督教団出版局1981)と述べておられる。イエスは大祭司の祈りにおいて「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハ 17:21-22)と祈っておられる。キリストを信じる者はそのうちにキリストを宿すもの即ち愛を宿すものであり、したがってイエスを信じる者、真理を知っている人は互いに愛するのである。ヨハネは「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(Ⅰヨハ 4: 20)と述べている。自らを吟味しょう。