2021/1/11-16
- 2021.01.11
- ディボーションの友
2021/1/11(月) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:1-3 賛美 新聖歌 342
ヨハネは「真理は永遠にわたしたちと共にあります。」と語る。「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハ14: 6)と語られたイエスはまた「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハ14: 17)と教えておられる。また、パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:20)と述べている。私たちがイエスを信じる信仰に留まる限り、イエスは私たちの内に内在してくださる。固く信仰に立ち、内在のキリスト・愛によって歩もう。
2021/1/12(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:8 賛美 新聖歌339
8節の語り手は主を信じているにもかかわらず闇の中に座っている。主を信じていながらなぜ敵に追い詰められ、闇に座ると言うような苦しみの中にあるのだろうか。しかしその時にも、この人は主の扱いを理不尽だと言って主を責め、主に不平を述べてはおらず、むしろ「私は主に罪を犯したので主の怒りを負わねばならない」と率直に罪を認めている。
真の神を信じる人であっても、困難や苦しみに遭うときにはしばしばその状況に陥ったのは神に責任があるように考えてしまうのではないだろうか。困難の中で自分を省みて、自分の罪を認めることは容易でないかもしれない。しかしミカ書では闇の中に座っている信仰者はそこに至った自分の罪と向き合い、罪ゆえに暗闇の中に座る状況を自己責任として受け止めつつ、さらにその中でも「主こそわが光」だと、変わりない神への信頼を明言している。私たちは暗闇の中に置かれたときに神との関係を正しく振り返って、自分の罪があるときにはそれを認め、悔い改め、なおも神への信頼を告白できるだろうか。日々のみ言葉の学びと祈りにおける聖霊との交わりを通してこのような信仰を持つ者となりたい。
2021/1/13(水) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:1-3 賛美 新聖歌 19
ヨハネは「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」と述べる。これについて島田勝彦師は「「真理」によって結ぼれた者がイエス・キリストによって保証された神のゆるぎない約束を「わたしたち」のものとして共に確認しようというのである。どんなに問題があり、悲しむべきことが生じ、試み惑わすものが襲ったとしても、この神の約束は変わることなく私たちと共にあるであろう、と。(中略)「恵み」は神の賜物としての恩寵であり私たちの内に本来なかったものが与えられ満たされることである。それは喜び、救い、力、誉、感謝であり、御子イエス・キリストご自身であるⅡコリ8:9〉。「平安」は単なる社会的平和、安泰ではない。「人間の生の全領域にわたっての神の意志に基づいた真の望ましい状態」であり「キリストによって与えられる神の愛と救いの現実そのものをさす」(新聖書大辞典P1200a〉。和解の主イエス・キリストによってのみ実現される終末的神の国である。(説教者のための聖書講解No36P31ー32日本基督教団出版局1981)と述べておられる。「恵み」「平安」は御子イエスの贖いの御業によって私たちに与えられたものである。
2021/1/14(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:9 賛美 新聖歌359
ミカ書のこの言葉は神を信じる者が自分の罪を正面から受け止め、主に対する責任を負う者として神に向き合う人の言葉である。神の恵みと赦しの中に生かされている私たちが、この大きな愛を与えて下さった神の前に、神に喜ばれる者として生きるというこの生き方は基本的な姿勢である。しかし「恵みの時」に生きている私たちはこれほどの深い認識と覚悟をもって神の前に歩んでいるだろうか。十字架においてあらわされた父なる神と子なる主の深い愛と恵みによって赦しをいただいた私たちは、しばしばこれほどの恵みをいただいたからこそ主の前に正しく生きる力と責任をも与えられていることを軽視してしまう。私を光に導き、恵みの御業を見せて下さる主の導きはいつも甘えを許容されるものではない。
神様の愛と恵みの中に生かされているからこそ、罪赦されたものとしてふさわしく、神の愛に応えていく責任を自覚しよう。その自覚をもって歩もうとする時に助けて下さる聖霊の力によって前進しよう。
2021/1/15(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6 賛美 新聖歌 426
詩人は「夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。」と訴える。パウロは「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」(Ⅰテサ5:2)と述べている。またイエスは「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。(中略)民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(中略)兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マコ 13:5-13)と教えておられる。「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」は夜、暗闇に乗じて活動する。終末が近付き、闇が濃さを増していく今の時代、彼らは活動を強めている。彼らが光の天使に偽装しているとしても、指導者に偽装しているとしても、聖霊に満たされ、霊の目を強めていただき、しっかりと判別していこう。
2021/1/16(土) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:1-3 賛美 聖歌 236
「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」という言葉について島田勝彦師は「「恵み」と「平安」はその望むべきところをすでに得たものとして彼らを確信せしめるであろう。しかし一方、この手紙が記された現実は未だであり、それを捕えようと身を伸ばしているのであり(フィリ3:12、Ⅰコリ5:1-5〉、時は「曲がった邪悪な時代のただ中」〈フィリ2:15〉である。彼らは今苦悩し、反キリストの力の前にさらされている。唯一頼り得るものは思いと心を一つにして彼らに代わって十字架を負い、真の隣人となって下さる方以外ではない。「あわれみ」は、今、彼らに必須であった。「恵みとあわれみと平安」とは、それ故、真理と愛のうちにのみ私たちと共にある生ける神の実存である。それは他の何ものによっても与えられることなく、どんなにたくみな論理や神秘主義によっても得ることができない。(説教者のための聖書講解No36P32日本基督教団出版局1981)と述べておられる。恵みと憐れみと平和、それは御子イエスの贖いの御業によってのみ、成就されたのである。ぺトロが「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4: 12)と述べているとおりである。
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