2021/2/1-6

 2021/2/1(月) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:9 賛美 新聖歌 316

 ヨハネは「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」と語る。この箇所について大沼田実師は「ここに異端の実態がうかがえる。キリストの教えを「とおり過ごしてしまう者」こそ、グノーシス主義者の姿である。この「とおり過ごすが、グノーシス主義者たちの合い言楽であったのではないかといわれる。すなわち、彼らは、より高い知識を得るために努力し、それを段階的に乗り越え、天的世界に上昇することを求めた。このために、「彼らはイエス・キリストなしに神との合一に到達できると信じたのである」(シュナッケンブルグ〉。このように、イエス・キリストを乗り越え、その教えをとおり過ごし、自分を進んだものと自負していたのであろう。この異端者たちは、神がイエス・キリストをとおして啓示された福音から進みすぎてしまい、はみ出てしまったのである。結局、教会がその初めから伝承してきたイエス・キリストの教えから逸脱し、正統信仰から遠く離れることになった。(説教者のための聖書講解No3638日本基督教団出版局1981)と述べておられる。信仰の歴史をたどっていく時、実に多くの信仰の破船の姿を見る。その多くが悪意からではなく、熱心から破船に至る姿である。パウロはイスラエルについて「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。」(ロマ 10:1-2)と述べている。御言葉の真理に堅く立って神との霊的交わりを求めよう。

 

2021/2/2(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書1:1  賛美 新聖歌252

 これからナホム書を読んでいく。ナホム書はニネベの町への神の言葉を伝えると書かれている。ヨナ書によるとヨナはニネベに行けと神から命じられたが、彼がそれを拒もうとする。それほどまでにニネベはヨナとイスラエルの民にとって憎むべき地であった。ニネベは大国アッシリアの首都であった。アッシリアは北王国を滅ぼした国であり、非常に残虐な国であった。預言者ナホムの故郷はガリラヤ地方と考えられるが、この地方は残虐なアッシリアの属州とされて苦しんでいた。

 ナホム書が書かれた時代、すでにアッシリアの力は衰退し、南王国のヨシヤ王によってアッシリアの支配下にあった地域は徐々に奪還されていた。しかし民の記憶には苦しみとアッシリアに対する怒りや憎しみが根付いていた。このニネベに対してナホムの預言がどのように語るのかを読むときに、私たちに苦しみを与える邪悪な力に対してどう対処すべきかという課題について考えていきたい。

 

2021/2/3(水) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1: 9 賛美 新聖歌 302

 ヨハネは「その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」と記す。イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハ 15:4-5)と教え、イエスにつながることについて「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハ 15:9-10)と教えておられる。常にイエスの教えに留まり、豊かな実を結ぶ者となろう。

 

2020/2/4(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書1:2-6  賛美 新聖歌21

 ナホム書は主に対する讃歌で始まる。しかしこの讃歌は私たちが毎日口にする賛美とは全く趣が異なる。神の優しさや慈しみ、主を信頼する人々を守る神について述べる讃歌ではない。むしろ神の圧倒的で荒々しい力について語っている。嵐や地震などのような荒々しい自然現象を通して人間が太刀打ちできない神の主権を示している。それは神に背き、対立する人々を決して見逃さない恐ろしい力でもある。

 神に逆らう人々や、罪を犯す人々や、神に忠実な民に敵対する者たちはこの荒々しい憤りに満ちた神の前に立たなければならない。神が力あるお方であるという事実は、神を信じる人々にとっては彼らを守る堅固な砦となるが、神に逆らう人々には彼らを滅びへと投げ込むあらがうことのできない恐ろしい裁き主として現れる。偉大な神の前に、私たちは神に愛されて守られるものとして立つのだろうか。あるいは神の怒りを受ける者として立つのだろうか。それは私たちの応答によって変わるのである。

 

2021/2/5(金) 担当 高谷清師 詩 59:10-11  賛美 聖歌 196

 神を畏れぬ罪人達が、神が沈黙しておられるのを良いことに、神を嘲り、傍若無人にふるまい、神を畏れ神に従う者たちを迫害する中に在って詩人は信仰によって「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を/神はわたしに支配させてくださいます。」と詠う。ぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペテ 3: 9)と述べている。不信仰者が傍若無人にふるまい、自らこそがスタンダードであるかのような顔をして世を支配している状況下にあっても、神は悪に対する、不信仰に対する裁きを忘れておられるのでもなく、放棄されたのでもない。神はその御言葉を確実に実行される。いかなる時にも、いかなる状況下にあってもみ言葉に対して誠実に歩もう。

 

2021/2/6(土) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:10-11 賛美 新聖歌 462

 ヨハネは「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。」と述べて、真実の福音から逸脱した教えを伝える者に対して厳しく対処すべきことを教えている。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わることになるからである。当時、間違った教えを伝えて人を惑わそうとする者が大勢世に出て来ており、彼らは間違った教えを携えて各地を巡回していた。

イエスは終末が迫った時の状況について「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マコ 13:21-23)と警告しておられる。今日、間違った教えは、偽教師によって、書物によって、マス‐メディアによって広範に拡散しており、世に溢れている。聖霊の光の中でしっかりと見極めていこう。