2021/3/22-27
- 2021.03.22
- ディボーションの友
2021/3/22(月) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 聖歌 273
「霊”によるあらゆる知恵と理解」と言うことについて大宮溥師は「これは知的訓練によって得られるというよりも、御言葉に聞き、祈りつつ現実の問題と取り組む生活の中で与えられ、錬磨されるものである。「霊的な」というのは、思弁的でなく、神との交わりの中で与えられる「上からの知恵」(ヤコプ3:17〉であることを指しているのである。」(説教者のための聖書講解No42P79日本基督教団出版局1983)と述べておられる。
今日、多くの信仰者が神学的、教理的に正しい信仰に立ちながら、愛、喜び、平安、・・・等々、聖書に約束された祝福を実生活において体験することが出来ないで空虚な信仰生活に悩まされていないだろうか。それらは神との絶えざる命の交わりの内で生きて働くものとなるのである。
2021/3/23(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書1:12-13 賛美 新聖歌
神の言葉を受けて今度は預言者が語っている。神への呼びかけにおいて預言者は神が聖なる方であり、行動なさるお方であると語っている。永遠の昔から変わることのない聖なるお方が行動されるのである。この時、預言者が見た神の行動は、民を裁くために裁きを実行する敵を興され、民を懲らしめるということであった。まさに敵を目前にして苦しむ預言者は、この状況が神の不在と働きの欠如によって起こったとは考えていない。だから神はどこにいるのですかと問うたり、神に御業をなしてくださいと願ったりしていないのである。状況が自国の危機に向かって進んでいるときにも預言者はそこに神の臨在と働きを見た
私たちは状況が信仰者にとって悪い方向へと進んでいくときに「神よ、私の苦しみを見て、私と共にいて下さい。そして御手を動かして私を助けて下さい。」と祈っていないだろうか。その祈りにおいて神が存在せず、働くこともないと言い表していないだろうか。どんな時にも神はともにおられ、働いておられる。
2021/3/24(水) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 聖歌 263
続いてパウロは「神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、」と祈る。この箇所について大宮溥師は「キリストはどのような生き方を、弟子にふさわしい生活と認められるのであろうか。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ10:37-39口語訳〉。これは実に激しい言葉であって、われわれはこの激しさの前にたじろがざるを得ない。しかし、この激しさは、実はキリストの愛の激しさなのである。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」(第一ヨハネ3:20口語訳〉その生命を賭したキリストの愛を思う時、「主にふさわしい」生活とは、われわれも生命を賭して主に従う以外にはない。したがって、これは厳しい要求ではなく、主の愛によって触発された生活である。行ないすました生活でなく、主の愛に燃やされて、心を熱くして主に仕える歩みである。」(説教者のための聖書講解No42P79日本基督教団出版局1983)と述べておられる。キリストの愛にあって。キリストを愛して生きよう。
2021/3/25(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書1:14-17 賛美 新聖歌427
12節から13節において、信仰者の苦しみの最中にも神は臨在し、働いておられることを預言者が知っているということを見た。ならば預言者の苦悩は神の不在によるものではなく、神がまさに信仰者に対立して働かれ、さらに悪い者を用いて信仰者を殺すことによって懲らしめるという状況であった。その結果13節のように神に詰め寄るような訴えを大胆にも述べるのである。
私たちの現実の生活でも「なぜ、正しい者が悪を行う者に苦しめられ、滅ぼされなければならないのか。」という問うことがある。歴史を見ても、なぜ神を信じる人々が神に敵対する人々から虐げられるのかという現実もある。ハバククと同じ叫びを私たちも叫ぶことがあるだろう。そこには私たちが悟っていない神の教えと語り掛けが潜んでいるのである。そしてこの状況においてなお神は信仰者がハバククのように神に問いかけ、詰め寄り、答えを下さいと叫ぶことを許してくださっている。ここに対話を拒まれない神の愛と、私たちの気づきと悔い改めを期待する神の忍耐を見ることができる。
2021/3/26(金) 担当 高谷清師 詩60:13 賛美 新聖歌 282
詩人は更に信仰を奮い立たせて「どうか我らを助け、敵からお救いください」と祈る。そして「人間の与える救いはむなしいものです」と告白する。この箇所についてカルヴァンは「あたかもダビデはこう言うかのごとくである。主よ、あなたのみ力を示そうと欲せられるときには、あなたはなにびとの助けをも必要とされません。あなたがわれわれに対して、好意の手を差し伸べられることを、あかしされるや否や、もはや人間からの助けを願い求める理由は、少しもなくなるでしょう。なぜならば,あなたの大能の輝きだけでも、すべての人間的な方策を消え失せさせるに、十分だからです」 と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P273新教出版社1971)と述べている。
「人間の与える救いはむなしいものです」それはすべての信仰者が分かっていることである。しかし、危機に遭遇する時、肉の目に見えないものよりも目に見える者に頼りたくなるのが人間の心情である。常に霊の眼を開き、聖霊によって歩もう。
2021/3/27(土) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 新聖歌 344
続いてパウロは「あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」と祈る。またエフェソ書において「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェ3:16-19)と祈っている。私たちが神の御心の一端を知る時、それは更に神の御心の深みへと私たちを導く。そのようにして神は私たちを豊かな祝福へと導いてくださるのである。神を求め続けよう。その旅路に極みはない。
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