2021/3/29-4/3
- 2021.03.29
- ディボーションの友
2021/3/29(月) 担当 高谷清師 コロ 1: 9-12 賛美 新聖歌 324
パウロは「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩」と勧めている。聖書はフェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。(使 24: 27)と記している。また「フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」と記している。キリストを信じない人々の関心は人の歓心を得ることである。パウロは「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラ 1: 10)と述べている。また、主は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」と語っておられる。人に喜ばれる、人の歓心を買う歩みではなく、神に喜ばれる歩みをしょう。
2021/3/30(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:1 賛美 新聖歌345
1章では預言者の嘆きが綴られていた。これは単なる独り言ではなく、神に対する訴えであった。ハバククは神に訴えて問いかけた時に瞬間的に神からの答えを受け取ったわけではなかった。預言者自身が訴えた後に神がその訴えに対して何と答えられるかを見ようと述べて、神の返答を待ち望むのである。もちろん、具体的にはどれくらいの期間待ち望んだのか、そして待ち望んだのちにどのような形で答えられたのかということは報告されていない。しかしこの個所から、神の言葉を聞いて民に取り次ぐ預言者も神の言葉を待ち望むことが必要であったとわかる。
私たちも祈った時にすぐに神の答えを聞きたいと願う。すぐに答えられなければ待ち望むことすら忘れてしまう。しかし神は私たちの都合に合わせていつもすぐに答えを与えられるとは限らない。神に祈って問いかけ、願ったことに神の答えを得るまで待ち望む姿勢を持ち続けよう。
2021/3/31(水) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 新聖歌 458
パウロは「そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、」と語る。この箇所についてL.T.ヴィトカンプは「外部から迫ってくることのある数々の困難に関わる社会的資質や、教会内の共同生活で起こってくることともある困難が問題なのかもしれない。しっかりしていることと我慢強さは受身の徳性ではなく、復活の主の能力の能動的な表われである。主は信仰者たちの生活の中に働きを現わされる。もう少し違った言葉で言えば(つまりもっとガラテヤ書と一致した言葉で言えば)、「耐え忍ぶ我慢強さ」は御霊の結ぶ実である。だからこそこの我慢強さは喜びをともなっており、これはパウロの手紙ではよく言われているものである。」(コンパクト聖書注解 コロサイ人への手紙社 教文館1998P60)と記している。ロマ書においてパウロは「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:2-5)と述べている。神の力に満たされてあらゆる試練に勝利させていただき信仰の生涯を全うしょう。
2021/4/1(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:2-4 賛美 新聖歌108
ついに神の答えが語られる。神はその答えを公にするために板の上に書き記せと命じられる。終わりの時に必ず実現する約束が与えられる。神の言葉は決してむなしく終わることはない。必ず実現する。しかしそのためにはやはり「待て」と命じられる。何か他のことをしながら時間つぶしをして待つのではなく、神に願ったことを主の手に委ねてすべてを任せて神の時を待つことを求められる。では実際に神は何を約束されるのか。自らが神であるかのようにふるまう高慢な者たち、おそらくはユダに対して敵対して踏みにじろうとする、真の神を認めない国が正しくあり得ないことを約束される。また神に従う人として表現される、高慢な者と対置されるユダの民は生きることができる。
神は必ず信仰者をその信仰のゆえに生かしてくださるから待てと言われる。私たちの祈りにおいても待つことがいかに重要かを、身をもって体験しているだろう。簡単にあきらめてしまうのではなく「待っておれ」と言われるこの声を心にとめ、心からの願いと祈りを捧げたならばすべてを神に信頼してその御手に委ね、心揺るがすことなく待ち続けていこう。
2021/4/2(金) 担当 高谷清師 詩60:14 賛美 新聖歌 434
「人間の与える救いはむなしいものです」と詠った詩人は最後に「神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。」と詠う。パウロは「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(?コリ5:18-19)と述べ、また「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(?コリ 15: 10)と述べている。更に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(?コリ 15: 58)と語っている。
宣教は神の業であると言う時、我々は何もしなくて良い、と言うのではない。御子イエスは十字架において贖いの御業を成し遂げ、甦り、サタンに勝利してくださった。そして聖霊を注ぎ、力を与え、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マコ 16: 15)と命じておられる。与えられている全てをもって主の御業に励もう。
2021/4/3(土) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 新聖歌 173
パウロは「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」と語る。この箇所について橋谷英徳師は「感謝はこういうことがあったからといって感謝するのではない。感謝はただ父なる神に感謝する。何か理由があって感謝するというのではない。神が神であられるがゆえに、感謝するのである。そこでは祈りがかなう、かなわないということは大事ではない。一番、大切なことは神との関係である。私たちは御子イエス・キリストのゆえに神を深く知る、ただそのことのゆえに神に感謝するのである。神の御前にあってただ神を神とする。そして、ここでは「感謝するように」と、そのことが祈られるのである。ここでは、「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった」(12節)とあって何らかのものを与えられて感謝しているように思われるかもしれないが、そうではない。ここでの相続はまだ目に見えるものとして与えられてはいない。見えないものでしかない。ここでは与えられたものへの感謝ではなく、あくまでも「御父」への感謝ということが強調されているのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フイリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P219日本基督教団出版局2012)と述べておられる。
病が癒された、問題が解決された、自分に都合の良いことが起こった、だから感謝する。しかし、自分に不都合なことが続くと感謝できない―――それは「イエスは主である」との信仰告白に反する。神が神であられるがゆえに、感謝できる信仰に生きよう。
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