2021/4/12-17

 2021/4/12(月) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 202

続いて御子について「すべてのものが造られる前に生まれた方です」と語っている。川村輝典師は「神から生まれるとは、神と本質を等しくする、という意味である。キリストが人となられたのは、神から人にその本質を変えられたのではなく、神という本質を持たれたまま、しかもまぎれもない一人の人間となられた、ということにほかならない。正にキリストは、真の神でありつつ、同時に真の人であられたのである。否、真の神であられたからこそ、真の人間になることがおできになったのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P223日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(フィリ2:6)と述べている。そして「神の身分」について新共同訳聖書スタデイ版は注釈欄に 「「神の身分」の直訳は神のかたち、姿。キリストが神と等しいこと、神の栄光を表していると理解される。」と記している。まさにキリストは真の神であり、真の人であられる。神と人の真の仲保者であられる。

 

2021/4/13(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:9-11賛美 新聖歌340

 「災いだ」に始まる言葉が続く。ここでは飽くことなく不正な手段を用いて欲望を追求する人の罪が語られている。なぜ彼らはむさぼり続けるのだろうか。それは彼ら自身が災いから逃れるためである。他国から奪い取り続けている大国が災いから逃れたいと願っているならば、一体誰から逃れようとしているのだろうか。周りの大国からと同時に、神からも逃れようとしているのだろう。このような恐怖に突き動かされた欲望の追及はどれほどの財を手に入れたところで決して満足することはない。そして彼らの自分勝手な利益追求は自らの国をも滅ぼし、自分自身をも傷つける。

 世界で力を得て諸外国から恐れられるほどの財力と権力と武力を手に入れてもその心に平安はない。それが神を拒み、自分の力でのし上がろうとする生き方の行きつくところである。神が与えて下さったものに感謝し、与えられたものを正しく用いて、自分の欲を満たすためではなく主の御名が崇められるために今日一日を歩ませていただこう。

 

2021/4/14(水) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 427

 御子イエスは「すべてのものが造られる前に生まれた方」である。ヨハネは「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1-3)と述べている。「すべてのものが造られる前」とは天地創造よりも前に生まれられたのであり、天地創造の時に存在し、その御業にかかわられたのである。実に、御子は救い主であられるとともに創造者であられる。

 

2021/4/15(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:12-14賛美 新聖歌415

 この言葉は戦いに勝ち、新たな領土を得た国に向かって語られている。彼らは征服された諸国の民に重労働を強いて新たな都を建設する。彼らは諸国の民が苦しみ、命を落としても全く気に留めない。被征服民にとっては希望の光など全く見いだせない状況である。しかし驚くべきことに、そのような状態においても「水が海を覆うように 大地は主の栄光の知識で満たされる」(14)と語られる。

 人間の力では全く希望が持てない状況に置かれると、私たちはすべてをあきらめ、良い方向に転換しようという努力もできなくなる。しかしその最中に世界中が主を知ると語られる。人知を超えた神の業が行われ、世界中で神が知られ、崇められる。これを宣言される神は今も変わりなく働いておられる。主の御心がなされるようにと祈ろう。

 

2021/4/16(金) 担当 高谷清師 詩  61:4-5  賛美 新聖歌 346

 詩人は「あなたは常にわたしの避けどころ/敵に対する力強い塔となってくださいます。あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り/あなたの翼を避けどころとして隠れます。」と祈る。この箇所について月本昭男師は「神に呼ばわるなかで、遠く離れていると思われた神がごく身近な「避け所」であり、敵の攻撃から守る「堅固な塔」であったことに気づかされたのである。そこで彼は、この神のいます「あなたの幕屋」に「永遠に」留まり、「み翼の隠れ処」で庇護されたい、との思いを披瀝する(5)。この「幕屋」と「み翼の隠れ処」がエルサレム神殿を暗示することはいうまでもない。」『詩編の思想と信仰?』P149新教出版社2011)と述べておられる。

 イエスは弟子たちを残して御国に帰られるにあたって「わたしは父にお願いしょう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)と約束してくださった。それはペンテコステにおいて成就し、聖霊は今も共に居て助けてくださる。また、パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るで、しょう。」(ヨハネ14:16)と述べている。

 思い煩いの一切を御手に委ねて感謝と讃美に生きよう。

 

2021/4/17(土) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 203

 パウロは「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」と語る。この箇所についてシュラッターは「万物が、その初めからキリストによっているという意味である、つまりその目標は〈キリストの所有となり、キリストに仕え、その御旨を行ない、キリストへの服従に自分の幸福を見出し、また、キリストをあがめることで光栄をかちとること〉にある。創造の初めにも終りにも、また、創造の開始の時にもその完成の時にも、神は御子なくして御自身の被造物の前に立たれることはない。神は、御自身がなされるいっさいのことをとおして、御自身の愛の御子を啓示される。御父は御子の栄光を現わすことによって、御自身の栄光を現わされる。そして、御子に統治させることによって、御自身の支配を実現される。それゆえ、私たちに対する神の救い主としての行為は、神が御子にあって、私たちの主を賜わる、ということにある」(シュラッター新約聖書講解10ピリピ・コロサイ・ピレモン書P73新教出版社1977)と記している。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:15)と述べている。神は御子においてご自身を顕され、私たちは御子において神を知り、御子において神の恵みに与るのである。