2021/6/28-7/3

2021/6/28(月) 担当 高谷清師 コロ2:16-23 賛美 新聖歌 338

 パウロは「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」について「こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです」と述べる。ヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(?ヨハ4:1-3)と述べている。パウロも「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」(?コリ 11:14)と述べている。わたしたち人間の能力を超えた霊的世界の現象に接する時、それに圧倒され、捕らわれやすい。しかし、キリスト者は神の恵みにより、聖霊の満たしに預かっている。常に聖霊に聞き従い、判断し、主の道を歩もう。
 

2021/6/29(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:1-5 賛美 新聖歌166

 諸国の罪について次々に語られてきた。それらの国々と並置されてエルサレムの罪が指摘されている。この箇所の中の最初の2節は都全体に向けられている。都の中に暴虐が満ちている。そしてそれは神に対する反逆である。都の中の一部の社会階級の人々に限らず、都全体が神の言葉を聞くことを拒み、暴虐があらゆるところに見られる。神の言葉が語られ続けてもそれを受け入れることを拒み、主を信頼することなく、自分勝手に生きている。神の前にひざまずき、神と共に生きようとする信仰者の姿は見られない。
 民全体が神の声に耳を傾けなくなる時、その中で一信仰者が自分も神から離れていることに気づくのは困難である。全体の風潮に流されてしまい、神の言葉を基準にして自分が正しく歩んでいるかを確認することすらままなくなる。信仰の基準は周りの信仰者ではなく、神の言葉である。神の言葉に耳を傾けよう。
 

2021/6/30(水) 担当 高谷清師 コロ2:16-23 賛美 聖歌 273

 パウロは「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、 結び合わされ 神に育てられて成長してゆくのです。」と語る。イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハ 15:1-7)と教えておられる。

成長の源、それはイエス以外には存在しない。イエスに結ばれて歩もう。
 
2021/7/1(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:1-5 賛美 新聖歌372
 エルサレムの罪を指摘する時、まずエルサレム全体について述べられた後、都の中にいる指導者たちに焦点が当てられていく。役人たち、裁判官、預言者、祭司と具体的に挙げられていく。あらゆる指導者たちが獲物にかみついて引き裂く獰猛な野獣に比較されている。本来神の言葉に従って正義を行うはずの指導者たちはもはや機能しておらず、弱者を虐げる急先鋒となってしまっている。このような社会に希望はない。しかし彼らの行いに関わらず、5節では「主は、都の中にいまして正しく 決して不正を行われない。」と告げられる。
 人間の罪がはびこる絶望的な状況においても、主は正しく、公正に裁きを行われる。神が変わらず義を行われるお方であるからこそ希望を見出すことができる。それと同時に神が義であるからこそ悪を行う者たちは恐れる。義なる神の前に私たちは生きている。しっかりと心を開いて神の言葉を聞き、聖霊に導かれて正しく応答し、神に喜ばれる歩みを続けたい。
 
2021/7/2(金) 担当 高谷清師 詩 62:10  賛美 新聖歌 2
 詩人は「人の子らは空しいもの。/人の子らは欺くもの。/共に秤にかけても、息よりも軽い。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「神から見るというのは、事物と人間の、わけでも自分自身の根本を究明することであって、隠し立てや自己欺瞞をしないで人生をあるがままに、あからさまな現実の中で直視することである。それは、自分のまわりの人々を煩わしく思い出した者の悲観的な嘆きなどとは全然ちがう。こういう人は、腹に溜めていたことをすっかりしゃべるが、自分がそこに加わらないことに言い難い喜びを抱いて満足感を持つものである。ところが詩人は、生ける神の前に立つとき自分も例外ではあり得ない人間固有の本質に対して、まったく冷静で厳粛な判断を下している。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P139』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パウロは「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ3:22-24)と述べている。
 すべての人間は罪を犯し、それ故、空しくされている。そこには自分が含まれている。このことを深く知る時、相互に赦し合い、愛し合い、ただ神を礼拝する者となる。
 

2021/7/3(土) 担当 高谷清師 コロ2:16-23 賛美 新聖歌 427

 パウロはコロサイの聖徒に対して「あなたがたはキリストと共に死んだものである」と述べる。ガラテヤ書においては「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:19-20)と述べている。キリストを信じる信仰を告白してバプテスマに与った者は、罪の体がキリストと共に十字架につけられ、死に、キリストの甦りの命に与り、生かされている者である。従って死すべき世の規則や教えから解放されており、それらは聖徒に対しては何の力も持たない。私たちは御言葉にのみ従って生きよう。