2021/7/26-31

 2021/7/26(月) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 355

 パウロは「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」と語る。キリストを知る以前は地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲といった罪にどっぷりと浸かり、それが自己を誇示するものであるかのように歩んでいた。しかし、キリストを知り、信じ、その贖いの恵みに与り、新しくされた今は、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けて歩むべきである。コリントの信徒への手紙二においてパウロは「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(?コリ 5:17)と述べている。古い自分ではなく、新しくされた自己によって歩もう。

 

2021/7/27(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:3-11 賛美 新聖歌166

 帰還を許された民は喜んで捕囚の地を後にしてエルサレムに帰って来て生活を再建し始めた。しかし約束の地に帰ってくると現実の生活は簡単なものではなかった。必死に種を蒔き、糧を得、安全を確保し、生活を再建しようとしていた。神殿を再建しなければならないと分かってはいるが手が回らなかった。そのことについて罪悪感を覚える余裕すらなかったであろう。働いても働いても雨が降らず、凶作に見舞われ、神に感謝して礼拝するどころか、神への疑問が湧き上がる。そのような状況を見てハガイは彼らに、第一にすべきことをしていないのではないかと自らの心を吟味するように呼び掛ける。神の民が第一とすべきは神の栄光があらわされるために、神殿建築を通して神に仕えることである。自分の必要ではなく神を第一に歩むことを訴え、自分の必要を第一にすることが罪であると気付くよう呼びかける。

 捕囚を経て帰還した民も捕囚前の民と比べて劇的にその心が変化したわけではなかった。にもかかわらず、エルサレムの滅亡と捕囚という裁きを経て、帰還が許され、生活が再建されるという回復の業はただ神の憐れみによって始まった。ここにも神の赦しが確かに存在したのである。

 

2021/7/28(水) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 新賛美 新聖歌 399

 続いて「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」と語られる。パウロは「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(?コリ5:2-5)と述べている。「救い」はイエスを救い主と信じた時、瞬時に与えられ、その人は神の民とされる。しかし、神の民としての実を備えるには長い行程を必要とする。それは私たちが高い山を目指す歩みのようである。目指す山の頂に立つためには多くの峰を越えなければならない。一つの峰に立ったと思えば目前には次の峰が立ちはだかっている。こうしていくつかの峰を越えて目指す頂に立つのである。信仰の場合も同じである。しかし神はそこに保証として“霊”を与えてくださっている。御霊に導かれつつ誠実に信仰の歩みを続けよう。

 

2021/7/29(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:3-11 賛美 新聖歌396

 帰還した民は怠けていたわけではなかった。荒廃した都を人が住めるところに整え、生活を立て直すために一生懸命働いた。しかし努力しても状況は改善しない。精一杯働いても作物は実らない。彼らはなぜ努力が報われないのか?かつて父祖たちと共にいた神は一体何をしておられるのか?と考えていただろう。そのような時にハガイは人々に語った。そして実りも得られず、わずかな収穫が風に吹き飛ばされて無駄になってしまうことは神がなさっていることであるとはっきりと指摘し、それは民が最優先にすべき神を敬い、神のためにささげて働くことを第一としていないからだと述べた。

 苦しみの中で必死に生活を再建しようとしている同胞をハガイは見ながら、それでも彼らの間違いを端的に、明確に告げた。厳しい言葉の中に愛を感じる。どんなに努力しても神を第一にしないならばそれはむなしい。どんなに自分の努力で富を得ようとしても、祝福の源である神なくしては得られないのである。

 

2021/7/30(金) 担当 高谷清師 詩 62:12-13  賛美 新聖歌 148

 詩人は「ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。」と詠う。小畑進師は「いつの世でも、人の世は不公平です。不合理です。正しい人が馬鹿を見て、悪い奴ほどよく眠る。悪人横行して、義人微行する。そのしわざに応じて報いられることのない世です。現に、今、悪人は国を壟断して、一人の義人を兎狩りよろしく追いつめ、その息の根をとめんとする。しかし、詩人は心中に確かめるのです。「そのしわざに応じて人に報いられる」方まします、と。悪人は神の審判を恐れ、義人は神の審判を期待する。「人はわれらを助けず、報いず。神のみ、そのいずれをもなしたもうなり。」(『詩篇講録上』Pいのちのことば社2007))。と述べていられる。パウロは「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ロマ 2:16)と述べている。今、日本においては当時の最高権力者の悪行を隠さんとして公文書の改竄を命じ、それに抵抗する者を死に追いやったいきさつを記した赤木ファイルの開示をめぐってせめぎ合いが続いている。世においてはそのすべてが明らかにされることはないであろう。しかし、神においては全てが知られており、その日にはすべてが明らかにされるであろう。人の前のみならず、全知の神の前に正しく歩もう。

 

2021/7/31(土) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 337

 パウロは「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」とのべる。ガラテヤ書においては「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラ 3:27-28)と述べている。ハンス・コンツェルマンは「教会内部においては、もはやもろもろの相異は存在しないのだ。この断定は、いつも洗礼およびキリストの身体なる教会への編入を想起せしめつつ現れ

る。この場所では、われわれはこの身体の肢体以外の何者でもないのである。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P383 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。尊い血潮によって贖われ、キリストの体の一部として加えられた私たちは謙遜になり、互いに愛し合い、認め合い、身体のために仕えて行こう。