2021/8/2-7
- 2021.08.02
- ディボーションの友
2021/8/2(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 337
パウロは「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」と記す。この箇所を口語訳は「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」と訳している。「だから」という言葉によってこの命令の根拠を示しているのである。それは「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」たことである。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰により、罪を赦され、新しく造り変えられた者である。これがキリスト者である。キリスト者は第一に「神に選ばれた者」である。選ばれた者―選民という言葉はイスラエルを思い起こさせる。イスラエルはそれによって傲慢になり、他を見下し、神の御心を無にした。キリスト者はそうであってはならない。イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ 15:16)語っておられる。み言葉に対する奉仕によって神と人に仕える者になっていきたい。
2021/8/3(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:12-15 賛美 新聖歌165
ハガイが神殿建築をないがしろにしている人々に語った言葉は人々の心に届いた。民はハガイを通して語られた主の言葉に耳を傾け、主を畏れ敬った。ここでいう「主を畏れる」とは恐怖に陥り、怯えることではない。生活再建のためにさらなる不安を持つことでもない。彼らはハガイの言葉を聞いたときに自分たちの間違いに気付いたのである。捕囚を経て嗣業の地に戻ることが出来たにもかかわらず、その背後にある神の御業を認めることもできなくなっていた自らの姿に向き合ったのである。神の主権を軽視し、神殿再建を後回しにしたことに直面した。
神の主権を軽んじたり、神を第一にすることをやめたりという状況は今の私たちの信仰生活にもいとも簡単に侵入してくる。気付かぬうちにこの状況に陥るがゆえに、深刻である。今一度立ち止まり、神を第一にしているか、神の主権を軽んじていないか、と自分に問いかけてみよう。
2021/8/4(水) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 新賛美 新聖歌 105
次いでキリスト者は「聖なる者とされ」た者である。それは神のために取り別けられた者、神に属する者である。これについて大隅啓三師は「キリスト者は神に所属するのであるから、自分の側には存在根拠をもたず、神の主体が自己の主体となった者なのである。もちろん、神の傘の下にあるのだから、その性質に感化され、聖化されるのは当然の順序である。バウロはこの状態を「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラ2:20)(新共同訳に置き換え、筆者)と言っている。これはこの世の人の生き方ではない。このように、この世との相違を鮮明にすることによって、真の世の光を指し示すことができるのである。神の側につけさせて頂く(神を自分の味方として取りこむこととは全く違う〉ことによって果たすことのできる課題かキリスト者にはある。」(説教者のための聖書講解No43P55-56日本基督教団出版局1983)と述べておられる。パウロはまたフィリピ書において「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリ 2:11)と述べている。イエスを僕とせず、「イエス・キリストは主である」との信仰告白に生きよう。
2021/8/5(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:12-15 賛美 新聖歌391
ハガイを通して主の言葉を聞いたゼルバベルとヨシュアと民の残りの者すべては主を畏れ、立ち上がって行動した。彼らは立ち上がって出ていき、滞っていた神殿建築の作業を再開した。神が語られた言葉を聞いたとき、彼らの心が動かされ、霊が力を受けた。そして行動として現れたのである。神様に触れられて変えられた人は、内面が変わるだけに止まらず、その変化は神への応答となって具体的な行動につながる。
私たちの信仰生活の中で聖書を通して神の語り掛けを聞き、祈りの中で御心を知り、実際にそれが行動の変化に結びついているだろうか。神の語り掛けに敏感でありたい。そして促されて力が与えられたならば、それを神の栄光のために実際に行動に移そう。私たちをありのままの姿で受け入れ、罪を赦し、語り掛けて下さる神は、変えられた私たちが具体的に主の栄光のために立ち上がって行動していくことをもまた求めておられ、喜ばれる。
2021/8/6(金) 担当 高谷清師 詩 62:2-3・6-7 賛美 新聖歌 323
本詩編について月本昭男師は「ただ神に向い、わが魂は沈黙する」という表題を付し「本詩の冒頭と6節に繰り返される神に対する沈黙は、まず第一に不安にかられたり、思いを高ぶらせることなく、神からの救いを静かに待ち望む姿勢を意味するだろう。モーセは、エジプトの軍隊に追跡され、恐怖の叫びをあげたイスラエルの民に、ヤハウェがあなたがたのために戦われるので、静かにして(沈黙して)いるように、と告げたと伝えられる(出14:14)。(詩編の思想と信仰?』P162新教出版社2011)と述べておられる。
優れた霊が宿っており、それ故傑出した力を発揮するダニエルに王国全体を治めさせようとする王の政策故にダニエルを妬む大臣や総督は、様々な策略を弄し、ダニエルを陥れようとした。その悪巧みを知りながらもダニエルは動揺することなく主の前に黙し、礼拝した。災いを避けることはできなかったが、災いはダニエルを損なうことはできなかった。神はダニエルを災いから守られたのである。いかなる事態に遭遇するとも、黙し、神に信頼し、固く立とう。
2021/8/7(土) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 216
またキリスト者は「神に愛されている」者である。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:16)と述べている。またイエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハ 15:9)と語っておられる。神は罪を犯した者を限りなく愛してくださり、その愛は十字架においてあらわされたのである。神に愛されている者として神を愛し、その御言葉に聞き従う歩みをしょう。
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