2021/11/15-20

 2021/11/15(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:3-7 賛美 新聖歌 339

 パウロは「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。」と述べている。テトスへの手紙では「ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。」(テトス1:14)と述べ、また「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」(テトス3:7-9)と述べている。更にエフェソの信徒への手紙においては「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェ4:29)と述べている。「作り話や切りのない系図」それは誤りではないとしても、聞く人に恵みが与えられ、その人を造り上げるのに役立つ言葉ではない。教会では聞く人に恵みが与えられ、その人を造り上げるのに役立つ言葉を語るべきである。

 

2021/11/16(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:18-19 賛美 新聖歌233

 71-3節では断食を従来通りに続けるべきか否かを祭司や預言者たちに質問していた。それに対する明確な答えがここで与えられている。今までは「悲しみの時」であった断食は喜びと祝の時に変えられる。神ご自身が変えて下さる。では民はどのようにこれに応えるべきだろうか。過去の悲しみはすべて忘れて楽しみを存分に味わうだけではない。この新たな祝福を喜びながら真実と平和を愛することが求められる。喜びを回復してくださった神に感謝し、神に信頼して忠実に聞き従うこと、また民の間で互いに真実を行うことがこれからの生活の基となる。

 神が回復を与えられてからもなお、民に求められている心の在り方は変わらない。そしてそれは今の時代に神を愛する私たちにも通じるものである。

 

2021/11/17(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:3-7 新賛美 新聖歌 222

 パウロは「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」と語る。イエスは「「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」と教えておられる。パウロもコリントの信徒への手紙Ⅰにおいて「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリ 13:13)と述べている。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:16)と述べている。愛は私たちの功績によってではなく、恵みによって与えられた神のたまものであり、私たちいのちであり、望みである、

 

2021/11/18(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:20-23 賛美 新聖歌436

 ゼカリヤはさらに新たな主の言葉を伝える。これは将来、神の定めた時に実現することが語られている。終わりの時にあらわされる御業を告知している。さらに多くの民が共に万軍の主、イスラエルの神を尋ね求める。多くの国々が一致して喜んで、自発的に主なる神を求める。ユダの民が他の国々の民を説得するのではなく、彼らの方から神と共に歩んでいるユダの民に、神のもとに導いてほしいと願う。

 ゼカリヤが終わりの時を見据えて語る神の言葉は今なお完全に実現してはいない。しかしすでに主の十字架の御業は完成され、人々がこの救いを求めて進み出ることが出来る恵みは示されている。なおこの預言が実現されることを求めて待ち続けるこの時、御業がなるように、多くの人々が主を心から尋ね求めるようにと祈ろう。

 

2021/11/19(金) 担当 高谷清師 詩 65:2-5  賛美 新聖歌

 この箇所について鍋谷尭爾師は

「人間の思いはかりがすべて打ち砕かれ、神の御前に徹底的な静けさと沈黙が支配するところに、純粋な賛美がささげられ、罪のゆるしがただ恵みとして受け入れられ、「幸いなことよ」という詩篇の中心的なことばが発せられます。罪のゆるしも恵みのみによるとすれば、神の御前に礼拝するために集められることも恵みのみによるのです。「あなたが選び、近寄せられた人」という表現によって、私が礼拝に行くのでなく、神が選び引き寄せられて礼拝するのであり、それはただ恵みであることが強調されます。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)

少数のクリスチャンであっても、毎日曜日、礼拝に出席する人たちは、「神によって選ばれ、神によって近寄せられている」というみことばによって支えられます。」

と述べておられる。(『詩篇を味わう?』P211212いのちのことば社 2006

 礼拝を欠席する人には様々な理由があるであろう。しかし、根本的には自らの意志によるのではなく、神によって止められているのである。そのような人は御言葉の前に謙虚に立ち、自らの信仰を吟味することが必要である。

 

2021/11/20(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 聖歌 254                                                                                      

 イエスは「わたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と言われる。聖書において「共に食事をする」とは、親密で楽しい交わりを意味している。戸をたたかれるイエスに応えて戸を開き、イエスを迎え入れたザアカイはイエスとの親しい交わりに与り、悔い改めに導かれた。祈りは神との親しい交わりである。交わりである以上、私たちの求めを述べるだけでなく、神の語りかけにも耳を傾けるという要素を持っている。ともすれば一方的に私たちの求めを述べることに陥りがちの私たちの祈りであるが、神の語りかけに耳を傾けることこそ、更に重要である。サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サム上15:22)と述べている。