2021/12/6-11
- 2021.12.06
- ディボーションの友
2021/12/6(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:-12-17 賛美 新聖歌 266
「今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。」(?テモ1:11)と述べたパウロは「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」と語る。そして彼は自己の過去を振り返る。パウロは以前、神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者であった。しかしそれは、信じていないとき知らずに行ったことであったので、憐れみを受けた。この時、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで大祭司のダマスコの諸会堂宛の手紙を携えてダマスコに向い、そこに近づいた時、イエスの出会い、真理を知り、悔い改め、宣教の務めに召された時の体験がまざまざと思い起こされていたことであろう。あの時から幾星霜、困難と危険の中、唯主の導きと守りによってその使命を果たしつつ老境を迎えた使徒の心には、主キリスト・イエスに感謝のみが満ち溢れていた。
2021/12/7(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:11-15 賛美 新聖歌222
神は3つの約束を与えられる。第一番目の約束が捕らわれている状態からの解放である。神はこの約束を契約に基づいて与えられる。神に背き、偶像礼拝を重ねて捕囚となった人々に対してさえ神は真実であった。そして神は捕らわれ人に対して砦に帰れ、エルサレムに帰れと命令を与える。人々にとっては思いもかけない神による回復の希望が与えられた。さらに神は帰還を命じるときに神ご自身が戦いの主として立ち上がり、民の盾となってくださるとの約束をも語られる。
捕囚の地に離散して力のない民に対して、神は定められたときに回復を与えられる。民には希望をもって帰ってきなさいと語りかけ、帰るために必要な守りと勝利を与えられる。神は変わることがないお方である。人が罪を犯して罰を受けるときにも、神はその人を愛し、神の定めた時に回復を与えて下さる。神の憐れみを覚え、真実な神に対して私たちも忠実に仕えていこう。
2021/12/8(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:-12-17 新賛美 新聖歌 369
キリストを知る以前のパウロは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者であった。パウロは「信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」と語る。イエスは姦淫の場で捕らえられた女に対して「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハ 8:11)と教えておられる。ヘブライ人への手紙の記者は「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。」(ヘブライ人への手紙 10:26-27)と述べている。またヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(?ヨハ 1:7)と述べている。この聖句の後半だけを切り取って「いくら罪を犯してもすべて許される」という解釈に惑わされて(「わたしたちが光の中を歩むなら」という条件が付されている)罪を犯し続け、滅びを招かないよう、注意しょう。
2021/12/9(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:16-17 賛美 新聖歌266
ここには第三の約束が語られる。民を帰還させてくださる神は、戦人として勝利を与えられるとの約束もされたが、それは血なまぐさい情景であった。しかしその戦いを通して神は捕囚を経験した民を羊のように養ってくださる。神はご自身の戦いを通して勝利を得て下さったその場所で民を安らかに養ってくださる。その地では穀物が豊かに実り、ぶどう酒が与えられる。神の祝福が確かにそこにあり、豊かな実りを人々は喜ぶのである。
かつて神の言葉に耳を傾けず、裁きを受けて国を失い、さらには捕囚として離散の生活を送った人々が神の約束により回復されるのである。民を赦し、解放し、回復して、再び祝福で満たしてくださるのはただ神の御業である。私たちも今すでに主がこの世に来てくださって救いの道が開かれた時代に生かされている。この時、さらに多くの人々が罪を悔い改めて神の招きに応えて主のもとへ帰り、新しい命と祝福に満たされて歩み始めることが出来るようにとりなして祈ろう。
2021/12/10(金) 担当 高谷清師 詩 65:4-5 賛美 新聖歌 216
詩人は「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。」と詠う。人が試練に遭遇する時(誠実に生きようとする人は必ず試練に遭遇する)その原因を他人のせいにしたり環境のせいにしたり社会のせいにしたりする。しかし、それを掘り下げていく時、自分の罪を認識させられる。その時、人は生きる基盤を失う。パウロさえも「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と叫ばざるを得なかった。しかし、御子イエスは「あなたの罪は赦された」(ルカ 5:20・7:48)とみ声をかけてくださる。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(?ヨハ 1:7)と述べている。幸いは健康と癒しにおいて、家庭的、社会的祝福において、経済的祝福において享受されるであろう。しかしそれらは地上的なものであり、消失するものである。御子イエスの血による罪の赦しこそ、生死を貫く唯一の幸いの基盤である。
2021/12/11(土) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11:4-7 賛美 新聖歌 281
ヘブライ人への手紙の記者は「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ人への手紙11:6)と述べている。主イエスは「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」」(マタ21:21-22)と教えておられる。更にヤコブは「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(ヤコブ1:6-9)と述べている。祈りの基盤は信仰である。それは全知全能であり、愛であられる生ける神に対する信仰が前提である。なお、一部の人々の間には「神は全知全能にして愛であり私たちを癒すお方であるから病にかかった時、医者にかかるのは不信仰である」と言う考えが存在するやに聞く。その考えは受け入れられない。医者は私たちの癒しのために神が与えてくださった恵みだからである。
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