≪デボーションの友≫2022/10/24-29
- 2022.10.24
- ディボーションの友
2022/10/24(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:26-29 聖歌(総)667 聖歌621
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と述べたパウロは「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と語る。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは
「バプテスマをもってキリスト・イエスに合わされたすべての人間は、同一のキリストを身にまとうことによって、多種、多様かつ多数であるままに一体の者、すなわちかの約束の成就を一身に担うアブラハムの霊の裔〔単数〕とされたのである。ある人間の生がキリストによって規定され、その生き死を通じてキリストが主となられるところでは、この生の現実の前に、その人の民族的ないし宗教的出自(ここでいう「ギリシア人」とは「異邦人」もしくは「異教徒」と同義である。ロマ1:16参照)、社会的地位、性別など、いわゆる過去的因縁に基づく一切の差別が無意味と化する。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P78 NTD新約聖書註解刊行会1979)
と記している。パウロはエフェソ書には「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェ2:14-16)と記している。社会においては分断と対立が激化し構想が繰り広げられている現実を直視しつつ、キリストを着せていただいた聖徒は分断と対立を越えて互いに祈り合い愛し合うことが出来るよう、祈ろう。
2022/10/25(火)担当 ラウジー満世師 創世記19:15-22 賛美 聖歌(総)495 聖歌478
15節では突然の訪問者を迎え入れた夜も間もなく明けようとしている。神のさばきのタイムリミットがごく間近に迫っている。それでもロトはなかなか重い腰を上げられない。町に留まるという婿たちのことが気になるのだろうか、あるいは自分が選んだ都市の快適な生活が名残惜しいのだろうか。いずれにしても救いの道は今すぐにここから出て逃げることしかないと言われていながらも、ロトはなおも躊躇している。急き立ててもなおかたくななロトをも神は最後まで見捨てず、背中を押して救いへと導かれた。最初に指定された山が遠すぎると最初からあきらめるロトの願いを聞き入れてより近くにある小さな町に逃げることを許してくださる。
町の滅びを告げられ、すぐに逃げるように言われ続けていたにもかかわらず、すぐに行動しなかったロトをも見捨てず、何とか救い出そうと願いを聞き入れて下さる神の、裁きの中にある寛容と慈しみを思う。滅びるべき人間が罪赦されて生かされているのはただただ神の恵みによる。
2022/10/26(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:26-29 聖歌(総)218 聖歌243
ヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは言葉をつないで
「この命題的宣言をもって、われわれがあるいは特定の民族や身分層の成員として、あるいは夫や妻の立場でそれぞれに組み込まれているこの地上での秩序関係が解体廃棄されるどころか、むしろ反対に、この地上世界に属する限りのわれわれの存在の全領域にわたってそうした秩序関係が冷徹かつ明確に承認されるというのが、ことの真相であるのは、おそらく説明の言を要しないであろう。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P64 NTD新約聖書註解刊行会1979)
と記している。パウロはエフェソ書において夫と妻、子と親、奴隷と主人に関する秩序を教えている。私たちはこの秩序を、神の子とされた者にふさわしく、権力と支配ではなく、愛と慈しみと感謝をもって実践していこう。
2022/10/27(木)担当 ラウジー満世師 創世記19:23-29 賛美 聖歌(総)408 聖歌408
ただただ神の忍耐と憐れみのゆえにソドムの町から救い出されたロトと妻と娘たちであった。しかし神の憐れみを受けて救いの恵みが開かれたロトの家族にもなすべき応答があった。それは神の言葉を守ることであった。19:17にはロトが無事に逃れるために「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」と明確に述べられている。この言葉にしっかりと従った人々は命を守られて逃げ延びることが出来た。しかし残念ながらロトの妻は途中で振り向いてしまい、塩の柱になってしまった。町に残る今までの思い出や友人や財産が気になったのだろうか。この世のものに心を向けてしまったのだろうか。
神がこのようにしなさいと命じられるならば、私たちはただその通りに従わなければならない。従順さを今日も求めよう。
2022/10/28(金) 担当 高谷清師 詩 71:19 賛美 聖歌(総)294 聖歌 309
詩人は「あなたは多くの災いと苦しみを/わたしに思い知らせられましたが/再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から/再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけ/すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。」と詠う。多くの災いと苦しみの中を歩ませられながらも神に対する信仰を告白しているのである。ヘブライ人への手紙の記者は
「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。(中略)霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブル12:5-11)
と記している。またパウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリ10:13)と記している。試練の時にも主を信頼して歩もう。
2022/10/29(土) 担当 高谷清師 民11:1-17 賛美 聖歌(総)232 聖歌256 神によって立てられた指導者モーセに率いられて奴隷の地エジプトを脱出したイスラエルはシナイの荒野に導かれた。神はご自身の民イスラエルを乳と密の流れる地、カナンに導きいれるご計画を持っておられたが、それに先立って先ずシナイの荒野に導かれたのである。シナイの荒野、それは文字通り荒野であって食料に乏しく、水も十分ではなかった。そのような中で神はマナをもってイスラエルを養い、岩を裂いてうるおされたが、イスラエル人は満足せず、どの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのをモーセは聞いた。その泣き言は神の耳にも達したので、主が激しく憤られた。神と民との間に立ってモーセは苦しみ、主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」「主に言った」と記されているが、それは叫びであったであろう。中には神に対して言ってはならないような言葉も記されている。このような祈りにも神は応えてくださった。苦境に落ちいった時その中から叫ぶ祈りにも神は応えてくださる。どんな時にも神により頼もう。
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