≪デボーションの友≫2022/11/28-12/3
- 2022.11.27
- ディボーションの友
2022/11/28(月) 担当 高谷清師 ガラ 4:8-11 聖歌(総)659 聖歌 614
パウロは「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」と問う。そして「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」と語る。この箇所について近藤勝彦師は
「世の諸力」は、異教の神々ですが、同時にユダヤ教の律法主義もそうでした。ガラテヤの人々は「いろいろな日、月、時節、年などを守っている」と指摘されています。(中略)それを守る姿は、福音信仰以前の異教の生活と同様ではないか、神々の祭儀の日や月、年中行事に服していたのと同じということでしょう。「神の子」でない奴隷の状態に見えます。今日の私たちの生活の中にこれに通じる隷属的な生活がないでしょうか。現代もまた「世の諸力」の下にいるのではないでしょうか。主イエスが十字架の贖いをもって私たちを助け出してくださった「世の諸力」は何でしょうか。日本社会には福音以前の宗教的風習がなお力を発揮しています。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP91)
と述べておられる。本年も師走を前にして来年度のカレンダーや各種予定表の出回る時期を迎えた。日本社会は「六曜」などにこだわり、キリストを悩ませる季節である。キリスト者は福音に固く立って偶像の支配に服することの無いように歩もう。
2022/11/29(火)担当 ラウジー満世師 創世記22:4-10 賛美 聖歌(総)552 聖歌530
アブラハムはイサクと共に彼をいけにえとして献げるための旅を続ける。遠くにモリヤの山が見えた時、彼は同行した若者たちにここで待つように命じてイサクと二人で旅を進める。状況が淡々と描かれ、彼は二人の若者に向かってイサクと二人で出かけて行って礼拝して帰ってくると伝える。一方で彼は神の命令においてイサクを献げようとしているのである。淡々と描かれている言葉からは彼の感情は読み取ることが難しいが、この時二人で行って二人で帰ってくると、彼は明確に若者たちに伝えている。神は息子を献げるように命じられたが必ず約束の子を守って下さるという確信からの言葉か、あるいは信仰の苦悩の真っ只中で神の憐れみに望みをかけてこのように語ったのか、その答えはこの情景からは得られない。
私たちの信仰生活にも神と共に歩んでいたとしてもすべてがはっきりとは分からないにもかかわらず、神ご自身を信じて歩む他ない時がやってくる。ただ神に向き合い、祈りの内で葛藤し、黙して従うことを求められる。その時に神に従い通す力の源は神を知っていることである。穏やかな一日をも無駄にせず、今日も神を深く知ることを求めよう。
2022/11/30(水) 担当 高谷清師 ガラ 4:8-11 聖歌(総)532 聖歌 514
アラムの王の軍司令官ナアマンが重い皮膚病の癒しを求めて預言者エリシャ訪れた時、「エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」これを聞いたナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」(列王下5:10-14)と記されている。
福音は御子イエスが私たちの全ての罪を負い、十字架に架かり、血を流してくださった。私たちはこのイエスを救い主と信じることによって救われる」と語る。人が救われる為には何の行いを求められず、唯キリストを信じる信仰の実が求められるのである。これはやさしいようで難しいものである。持病を持つ人、悩みを持つ人等は「○○をすればよくなる」、「○○をすれば救われる」という方が受け入れられやすい様である。この心理が統一教会の高額献金問題、霊感商法問題を引き起こしたと言える。これは旧統一教会のみならず、カルト集団の常套手段である。しっかりと福音に立って歩もう。
2022/12/1(木)担当 ラウジー満世師 創世記22:4-10 賛美 聖歌(総)526聖歌508
父と息子の旅路での対話は緊張感に満ちている。父はイサクに、献げ物の子羊はきっと神が備えて下さるとしか答えられない。イサクも父の葛藤を感じ取っただろう。実際にいけにえを捧げる場所について祭壇を整え、息子を祭壇に置いてもまだ神からのストップはかからなかった。アブラハムが刃物を取ってまさに息子に手をかけようとするその瞬間にようやく神はアブラハムを止められた。ぎりぎりまで試された。
読む私たちにも様々な疑問が浮かぶ。なぜ神はこんな酷なことを求められるのか、愛と義の神がここまでなさるのか、これほどの試練に意味があるのかと、問いは尽きない。怖れなく神に近づき、神の恵みを受けることに心を向ける私たちは、同時に神が主であり、神のご計画のすべてを常に100パーセント示されているわけではないが、その状況で従うことを求められていることを思い起こすこともまた大切である。あり得ない要求を受けたとしても従うことが出来るために、最後まで神を信じ切ることが出来る強い関係を神との間に与えられるように祈り、求め、日々歩もう。
2022/12/2(金) 担当 高谷清師 詩 72:5-7 賛美 聖歌(総)636 聖歌 598
詩人は王の長命を求めて「王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。」と祈る。常に神の言葉に従って民を導きく時、それが地に豊かさと正義と平和をもたらすからである。この箇所についてA. ヴァイザーは
「神の永遠の救いの秩序は、その永遠の自然の秩序の上位にあり、またそれとは分けられない(創8:22参照)。王の任務の意味も、民が支配者のためにいだく壮大な願望の意味も、この救いの秩序で測られる。王とその務めに特別な重みを与え、会衆の祈りに独特な調子を付与するのは、人間を永久化することではなく、人間的なものが神の秩序の永遠性にあずかることによるのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P209』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)
と述べている。主イエスは「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と教えておられる。信仰によって主と結ばれ、御名を顕していくことこそ、私たちの永遠の喜びである。
2022/12/3(土) 担当 高谷清師 マタ 7:7-12 賛美 聖歌(総)392 聖歌 392
イエスは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」と教えておられる。またヘブライ人への手紙の著者は「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:10-11)と記している。神は善にして愛・永遠なるお方である。わたしたちには今は分からないとしても、永遠の視座をもって最善のものを与えてくださる方である。全き信頼をもって従おう。
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