≪デボーションの友≫2022/12/5-10
- 2022.12.04
- ディボーションの友
2022/12/5(月) 担当 高谷清師 ガラ4:12-18 聖歌(総)476 聖歌 463
パウロは「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」と語る。コリントの信徒への手紙Ⅰにおいてパウロは「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」(一コリ9:21-22)と語っている。ユダヤ人であるパウロが律法から解放されたのは、信仰によってキリストと共に十字架につけられたからである。人はすべて―ユダヤ人も異邦人も―罪によって死に定められており、キリストの十字架だけが人を罪から解放し、自由にするのである。キリスト・イエスに対する信仰によって罪から解放された者にユダヤ人と異邦人の差別は無く、キリストに在って一つである。
2022/12/6(火)担当 ラウジー満世師 創世記22:11-14 賛美 聖歌(総)合69聖歌545
アブラハムが神の言葉に従って息子イサクを屠ろうとしたその瞬間、神はアブラハムに呼びかけ、息子を殺してはならないと語られた。大切な約束の息子の命を今まさにささげようとするその瞬間まで神は彼の信仰を試された。このことについて私たちは様々な疑問を抱くかもしれない。なぜ全知の神が敢えてアブラハムの信仰を試す必要があったのか、なぜ神は結果を知っていながらこれほどの苦痛を父子に与える出来事を通されたのか、このようは試練を与えることが義なる神のなさることか、など、疑問は尽きない。私たちは聖書を通して神を知り、その知識に基づいて神のなさることを理解しようと努める。大切なことであり、み言葉を理解してしっかり考えることによって神により近づく恵みがある。しかし、神は偉大な力ある主権者である。人の理解を許さないような場面で、理不尽だと感じながらもぎりぎりまで信仰を試されることもまたあり得る。
しっかり考えて神を知る努力を続けよう。それと同時に私たちの限られた知識と理解を超える神のご計画に基づいて私たちを導かれることもあることを覚えて、謙虚に主と共に歩もう。
2022/12/8(水) 担当 高谷清師 ガラ4:12-18 聖歌(総)473 聖歌 460
パウロは「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」と語る。使徒言行録によるとパウロは少なくとも二回ガラテヤを訪れている。ここに記されているのは最初の訪問において福音を伝え、ガラテヤの人たちが福音を受け入れ、パウロを受け入れた時の様子である。5章においてパウロは肉の業と霊の結ぶ実について述べている(5:18-23参照)。純粋に福音に立って歩むときにはその交わりにおいて豊かな霊の実を結ぶことができる。しかしそこに肉が入り込むとき、対立と争いが生じ、愛の絆は失われ、喜びは消え失せる。自らの信仰の立ち位置を確認しょう。
2022/12/8(木)担当 ラウジー満世師 創世記22:11-19 賛美 聖歌(総)319聖歌332
神から与えられた試練を通して神に従い通したアブラハムは木の茂みの中に息子イサクに代わる生け贄の雄羊を見出し、これをささげた。感謝を込めてアブラハムはその場所にヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。こう名付けるほどにアブラハムにとってこの試練の経験は信仰の歩みの中の大切なステップとなった。もちろん神は意味なく彼を試されたのではなかった。アブラハムが全き服従を通して示した信仰を認め、ご自身にかけてまで誓いを立て、子孫の祝福の約束を再確認してくださった。まさにイサクの命を通して実現される約束を再確認された。
神を信じる、従うということは口先だけのその場限りの言葉で完成できることではない。祝福を受けて喜ぶこともあれば、神の導きに戸惑いながらも疑問を挟むことを差し控えてとにかく従えとはっきり命じられることについて行くだけの時もある。それを可能にするのは日々培われていく信仰によるのみである。
2022/12/2(金) 担当 高谷清師 詩 72:8-11 賛美 聖歌(総)421 聖歌 420
詩人は「王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますように。砂漠に住む者が彼の前に身を屈め/敵が塵をなめますように。タルシシュや島々の王が献げ物を/シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。」と祈る。ミカは「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光。わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。「お前の神、主はどこにいるのか」と/わたしに言っていた敵は/このことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。あなたの城壁を再建する日/それは、国境の広げられる日だ。その日、人々はあなたのもとに来る/アッシリアからエジプトの町々まで/エジプトからユーフラテスまで/海から海、山から山まで。(ミカ7:8-12)」と預言している。また、パウロは「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。『救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。』」と記している。イスラエルの王は罪を犯したため神によって退けられた。しかし神は憐れみをもって罪を取り除きご自身の約束を成就してくださる。主の尊い血潮によって罪赦された私たちも罪に陥ることがある。しかしそのような時にも神に立ち帰るなら、神は私たちの罪を取り除き愛のみ腕に抱きしめてくださる。
2022/12/10(土) 担当 高谷清師 ルカ6:12-16 賛美 聖歌(総)580 聖歌 556 この箇所には十二使徒の人選と任命が記されている。十二使徒は主が十字架につき、血を流し、世の全ての罪からの贖いの御業を成し遂げ、死んで葬られ、死を打ち滅ぼして復活し、信じるすべての人のために永遠の命を勝ち取ってくださった、その恵みを全世界に携え行くべき重要な任務を担う人々であった。このような重大な決断を為すに先立って主は独り、祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。御子である主が、である。夜を徹して、長時間、独りで、神と一対一で向き合い深く神の御心を求める祈りである。私たちが何かを行おうとするときには祈るが、その祈りは自らの内に計画が出来上がっており、祈りは神の御心を求めるというより、形式的、儀式的なものになっていないだろうか、深く吟味を求められるところである。
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