≪デボーションの友≫2023/5/15-20

2023/5/15(月) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15: 35-49  賛美 聖歌(総)643 聖歌 605

 コリントの聖徒たちは復活について教えられてきた。しかし、現実には体の死は避けられない。人が死んで葬られるとその体は朽ち果て、やがて消滅していく。(当時は土葬が一般的であった。今日の日本では火葬が行われる。その場合数時間でわずかの灰に帰する。)この現実を前にしてコリントの人々は「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、」と問うた。これは現実的でもっともな問いである。コリントの一部の人々のみならず、現在のわれわれにとっても現実的な問いである。これに対してパウロは「愚かな人だ」という。そして「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」と語る。種は地に蒔かれ、芽を出し、成長する。しかし、種そのものは朽ちる。この箇所について竹森満佐一師は

「ここに書いてあることを読んでみて、だれでも感じることは、ここには、何も、面倒な理屈や説明はない、ということであります。少しばかりの例話が書いであるだけである、ということであります。それなのに、おろかといわれるのは、われわれは、この話を畑の話としか考えないのに、神は、全くちがった見方をしておられる、ということであります。死人についても、死ののちの生活についても、いつでも、常識で分かるように、人間の説明で納得がいくようにだけ考えよう、とします。それなら、はじめから、信仰はいらないのです。このことは、実はほかのことも同じですが、信仰によって考えるほかはないのであります。いいかえれば、神のお考えから考えるほかはないのです。」(『講解説教・コリント人への第一の手紙P592』新教出版社1988)

と述べておられる。「イエスは主である」この信仰告白に生きるとは、自分に死んで神の御考えに生きることである。

2023/5/16(火)担当 ラウジー満世師 創世記38:1-11 賛美 聖歌総合版398 聖歌398

 ユダとその息子たちの世代について書かれている。長男はタマルを嫁としたが、自分の罪により子を持つことなく死に至った。タマルは夫の家系を残すという義務と権利のゆえに次男によって長男の子孫を残すことになるが、次男もまた人目につかない罪を犯して、主によって死に至った。これを見たユダは三男を惜しんでタマルから遠ざけた。この状況でタマルの権利は侵害され、ユダの長男、次男、そしてユダ自身の罪は人目にさらされることなく、彼らは体面を保っている。

 ユダは二人の息子の死を見ても彼らが神の罰を受けて死に至ったその罪を見極められなかっただろう。それゆえにタマルとの関係を恐れ、三男の命を惜しんだ。結果としてユダ自身もまた不義の道を選んでしまった。彼らの罪は人目には晒されないが、神はご覧になっている。また一方で権利が侵害された弱者タマルをご覧になっている。罪は人目に晒されなければ良いというものではない。主と共に生きる者は主の前に義しく生きるのである。

2023/5/17(水) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:39-41  賛美 聖歌(総)481 聖歌 468

 パウロは「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」と語る。これについて加藤常昭師は

「パウロがここでよく知ってもらいたいと思っているのは、われわれが新たに与えられるからだ、神様が用意していてくださるからだはどのようなものであるか分からないけれども、輝きがあるということです。輝きのないものではない。神が与えてくださる輝き。神の栄光の輝きを映し出す者と言っても差し支えないであろう輝きを持って生きることができるということです。」(コリントの信徒への手紙一講話P419 教文館2021)

と述べておられる。豊かな恵みを感謝しょう。

2023/5/18(木)担当 ラウジー満世師 創世記38:12-30 賛美 聖歌総合版474 聖歌461

 父の家に帰されたタマルはユダの三男シェラの成長を待ちつつユダの行動を見守っていたが、夫の子孫を得ることが出来ないことははっきりした。そのため彼女は自分の権利のために行動する。神殿娼婦を装ってユダによって子を得た。彼女の死刑の場に一同が集まったところで彼女の行為の理由が示され、ユダの罪が証明された。ユダは自分の息子シェラをタマルに与えなかった罪を認めて、タマルの命と権利は守られた。

 ここで問題とされているのはタマルの行動のすべての正しさではなく、当時守られるべきであったやもめという弱者の権利が踏みにじられたことに対する権利の回復である。弱者の権利が踏みにじられるのは当時でも起こっていた。力ある者たちが主導する社会では簡単につぶされるような権利であっても、神は弱者の不当な苦しみを見て憐れんでくださる。弱者であったとしても神に頼り、罪を犯すことなく主の導きの中で歩もう。

2023/5/19(金) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:42-44 賛美 聖歌(総)569 聖歌 545

 パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と語る。フィリピの信徒への手紙においては「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:21)と述べている。神によって復活されたキリストはご自身を信じる者を蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに、御自分の栄光ある体と同じ形に復活させてくださるのである。ここにキリスト者の望みがある。

2023/5/20(土) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:45-49 賛美 聖歌(総)538 聖歌 520

 パウロは「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」と語る。「最初の人アダム」について創世記は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創 2:7)と述べている。最初のアダムは神に命の息を吹き入れられ、生きる者となった。これに対して最後のアダムと言われるキリストは命を与える霊となった、生かす力を持った人間であった。そこでパウロは「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」と語る。ローマの信徒への手紙においてパウロは「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ 8:11)と述べている。神は信仰によって私たちの内に与えられた聖霊によって生かしてくださるのである。