≪デボーションの友≫2023/7/24-29
- 2023.07.23
- ディボーションの友
2023/7/24(月) 担当 高谷清師 ルカ3:23-38 賛美 聖歌(総)307 聖歌 320
ルカはこの箇所にイエスの系図を記している。マタイもその福音書の冒頭にイエスの系図を記している。同じイエスの系図であるが、その内容は大きく異なっている。両方の系図で一致する人名よりも一致しない人名の方が多い。マタイがマリアの家系をたどったのに対し、ルカはヨセフの家系をたどったからと説明される場合があるが、そうとも言い切れない点もあるようである。注意すべきはマタイがヘブル語聖書を用いたのに対し、ルカはギリシャ語聖書を用いていることである。この問題は今後の研究に俟たなければならないが、いづれにしても解釈にはそれほど問題は無いであろう。
ルカは冒頭に「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。」と記している。この「三十歳」という年齢について考えてみよう。民数記は祭司の務めについて「臨在の幕屋で作業に従事することのできるのは三十歳以上五十歳以下の者である。」と述べている。また、サム下 5:4によるとダビデが王位に就いたのは30歳であった。祭司、王、預言者と言った職務に就く者としては、人間としての成熟度と言った面からも「三十歳」と言う年齢は重要視されたのであろう。勿論、イエスの場合はそのような必要はなかったと言えるかもしれない。しかしイエスは全き人間としての成長過程を歩まれたのである。
2023/7/25(火)担当 ラウジー満世師 創世記43:15-25 賛美 聖歌総合版562 聖歌540
父ヤコブの許可を得て助言に従って贈り物を整えた兄たちは、末の弟を連れて再びエジプトへ向かった。ヨセフはベニヤミンも同行していることを確認した上で自宅へと兄弟を招き、心づくしのもてなしを準備する。兄弟が「あの人」、すなわちヨセフと対面するまでのしばらくの時間にヨセフの執事と過ごす時間があった。事情が全く分からない兄たちは奴隷にされて父の元へは戻れないと恐れ、必死で事情を説明する。執事は意外にも、恐れるな、神が事をなされた、と言う。この言葉には神による救いの約束が暗示されていた。あえて不明瞭に伝えられたこのメッセージは、恐怖の中でもしっかりと心を開いて聞かなければ心に留まらないものであった。確かに兄たちには混乱と恐怖の続く状況だったが、神はその中でも、どこにおいても神の守りがあると伝え続けておられた。
試練や恐怖の中に居る時、心を開いて神の語り掛けを聞くことは簡単なことではない。神が沈黙しておられると感じているときにも実は神は語り続けて下さることもある。目に見える状況に翻弄されず、主の語り掛けを聞き取れる者でありたい。
2023/7/26(水) 担当 高谷清師 ルカ3:23-38 賛美 聖歌(総)631 聖歌 593
ルカは「イエスはヨセフの子と思われていた」と記している。口語訳は「人々の考えによれば、ヨセフの子であった。」と訳している。1章、2章においてイエスの誕生の次第を記してきたルカはイエスとヨセフとの間には血のつながりが無いことを知っていた。しかし、人々がイエスはヨセフの息子であると言っていたのに対し、あえてそれを否定しなかった。イエスもまた、ヨセフを父として受け入れておられた。そして、ヨセフから始めてアダムに至る。アダムはエバに誘われて罪を犯し、神の国を追放され、それ以降、人類は罪の歴史の中を歩んできた。その罪人の歴史の中にイエスはお生まれになった。しかしルカはアダムの次に「そして神に至る。」と記している。罪を犯したアダムの子孫として罪に縛られ、死の中を歩んできた人類はイエスによって神に繋がれ、神の民とされる道が開かれたのである。御子によって与えられた深い恵みに感謝しょう。
2023/7/27(木)担当 ラウジー満世師 創世記43:26-25 賛美 聖歌総合版538 聖歌520
ヨセフが帰宅して一同は食卓に着く。最初のエジプト訪問の時にはスパイ嫌疑がかけられ、政治的な駆け引きのもとに兄弟の対面が兄たちには隠された。しかし今回は兄たちが当惑する中、ヨセフが不在の年老いた父の安否を尋ね、末の弟と対面して特別な挨拶を述べ、このエジプト人が知るはずもない年齢順に座席が準備されてもてなしを受けている。家族のような食卓である。ヨセフは兄たちへの怒りを乗り越え、既に愛情を向けているようである。兄たちは状況が把握できず困惑するばかりであろう。ならば一層ここでヨセフが真実を明かして和解して神に感謝すればよいと思うが、現実にはエジプト人とユダヤ人という立場の違いがあり、ヨセフの心情のみで突っ走ることはできない。
ヨセフの中に赦しが既に実現しているとしても、社会で生きる時には段階を経なければならない。現代のクリスチャンとして、信仰者として生きる時に、私たちも異教社会の一員として手続きを経て時を待たなければならないこともある。信仰と知恵を用いて主の喜ばれる道を歩もう。
2023/7/28(金) 担当 高谷清師 ルカ3:23-38 賛美 聖歌(総)449 聖歌 447
ルカが系図を記した意図について菅原裕治師は
「著者が、イエスに見出した事柄、そして系図を用いて示そうとした事柄は、天地創造から始まり、終末に至るまでの壮大な歴史の中での大転換である。(中略)それは端的に言えばえば、神は天地を創造し、アブラハムを諸問民の父として契約を始めて、イスラエルの民との救いの契約を中心にしてご自身を啓示された。しかし、その契約は今やイエスを通じて全ての民に広がったということにほかならない。全ての民がイエスを通じて信仰的・霊的に神に至ることが可能となったということである。(中略)ここからキリスト教の宣教が始まるのであり、教会形成が始まるのである。神は、イエスを通して、イスラエルの民のみならず全ての民を自らに結びつけることを可能とした、言い換えると、全ての民に神に至る道を開いたのである。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P249-250日本キリスト教団出版局2014)
と述べておられる。パウロは「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(エフェ2:11-13)と語っている。御子において成し遂げられた恵みのみわざに感謝しょう。
2023/7/29(土) 担当 高谷清師 ルカ3:23-38 賛美 聖歌(総)538 聖歌 520
この箇所に関連して加藤常昭師が大切なことを語っておられるので少し長くなるが、引用させていただこう。
「先週、私は東京神学大学での説教学演習をやっと終えて、ほっとしています。最後の授業の時に、私は学生諸君にこういう忠告をしました。説教する時に、最も注意をしなければいけないことのひとつは、善玉、悪玉の考え方をもって人を慰めてしまうこと、あるいは、励ましてしまうことだと。今回学んだのは、クリスマスの記事についての説教です。ルカ福音書第二章のクリスマスの物語です。何人もの学生が羊飼いの話をした。最初はこう始まるのです。羊飼いは、当時の世界では、とても卑しい職業であった。人びとに顧みられない職業であった。とても低い階層に属する者であった。そのようにいやしい者を、神が選んで主イエスの誕生を知らせてくださった。羊飼いは立って、ベツレヘムに行き、主イエスに会ったことを喜び、天使のみ告げのことを話した。ところが、それを聞いた人びとは、ただ不思議に思っただけであって、それ以上の何ものでもなかった。そのへんから調子が変わってくるのです。ベツレへムに行って、イエスさまを拝んだ羊飼いは偉かった。天使の話をすることができた羊飼いは偉かった。羊飼いの話を聞いても、ただびっくりしただけで、それっきりであった連中は愚かであった。まことにかわいそうな人びとであった。私たちも羊飼いのように偉くなりましよう。(中略)その羊飼いの卑しさに身を合わせたところに留まって、ただ神の恵みを、この自分のところにまで低くおりて来てくださった主イエスの恵みを語り続けようとしないのか。なぜ、周りの人をふり返って、あの人は愚か、この連中は、かわいそうと言わなければ慰められたことにならないのか。
主イエスは血筋を選ばれたのではありません。主イエスは、世界中の家筋をたどって、これこそ自分に、最もふさわしい家筋と見つけたところに、自分のいのちをつないだのではない。そうであれば、私どもの誰が救われるでしょうか。誰が、この主の食卓にあずかれるでしょうか。誰が、主の兄弟となり、主と同じ神の子として、父なる神を呼ぶことができるでしょうか。私どもの地上に生きているここに、主イエスが来てくださった。そして、私どもを丸ごとすくいとってくださった。丸ごと、その血によって生かしてくださった。(加藤常昭説教会集13 ルカによる福音書1P370-371ヨルダン社1995)」
と述べておられる。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでの従順をもって私たちを救ってくださる主イエスに感謝しょう。
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