≪デボーションの友≫2023/7/31-8/5

2023/7/31(月) 担当 高谷清師 ルカ4:1-13  賛美 聖歌(総)488 聖歌 471

 この箇所には「誘惑を受ける」と言う表題が付されておる。そしてルカは「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」と記している。マタイは「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタ4:1)と記している。「誘惑」(K. H. レングストルフは「試惑」と表現している)についてK. H. レングストルフは

「事件の経過全体を理解するためには、「試惑」ということが、福音書記者たちとその当時の人々にとって、神の意志に本当に完全に従っているかどうかをためすためのものであった、ということを知らなければならない。それ故、「試惑」の背後には究極的には神ご自身が立っておられ(ルカ22:31-32、Ⅰコリ10:13参照)、そして「試みられた者」は罪人ではなく、敬虔な者であり正しい者なのである。同様に、その目的は神との交わりを保持し深めることであって、それをそこなったり破壊したりすることではない。その意味で、敬虔な者にとっては「ためされる」ことが自分に対する神の愛の証明である(中略)これらのことを考えるとき、イエスが神の「愛する子」(3:22)でありながら、特別に大がかりで徹底的な「試惑」に導かれ、悪魔の攻撃の中でご自身を正に神の子として(4:3・9)証明したまうたことの何であるかが知られるのである(中略)試惑とその継続とは、ここでもまた(ヨブ1:12・42:10参照)あくまで神の事柄であって、神ご自身の霊が一定期間イエスを荒野に導いたのである。」(NTD新約聖書註解(3) ルカによる福音書 P130-131 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。「誘惑」もまた神の御手の中に在り、神の愛によるのである。

2023/8/1(火)担当 ラウジー満世師 創世記44:1-13 賛美 聖歌総合版577 聖歌553

 ヨセフの行動を見ると不可解な気持ちが残る。ヨセフについて何も知らずに食料調達に来た兄たちに事実を隠す。兄たちが食料を手に入れ、皆で帰国できると安心したところに罠を仕掛ける。宮廷を出発した彼らを追いかけて冤罪を作って責め立てる姿は到底受け入れがたい。確かにヨセフは兄たちの嫉妬と罪により長い年月孤独を味わい苦しんだ。それでも、このような振る舞いは赦されない。一方、ヨセフの気持ちを考えれば、真の神を信じている者であっても、兄たちの罪によって経験したことによる悲しみと苦しみは消え去るものではなく、罪の告白すらしない兄たちを相手に何事もなかったように水に流してすべてを赦すことは難しい。

 「赦しなさい」と語るみ言葉を前に、赦すことが出来ずに苦しんでいるクリスチャンが多いのではないだろうか。赦せないことを隠しながら、赦せない自分を責める。ヨセフの行為は受け入れ難いが、彼の心の葛藤を思う時、赦すためには加害者と被害者がしっかり向き合うことが不可欠だと知らされる。赦すことについて問題を抱えているなら、主の知恵により正しく対処し、罪を適切に取り扱うことが出来るように求め、行動しよう。

2023/8/2(水) 担当 高谷清師 ルカ4:1-13  賛美 聖歌(総)631 聖歌 593

 更に、イエスの務めについてについてK. H. レングストルフは

「イエスは、のちにもしばしば人なき所を訪れ、そこで祈りたまうた(4:42その箇所参照)。だがそのような淋しい所には、悪鬼たちも群をなして住んでいる(8:29)。従って、イエスにとってその地は、悪魔が彼と神との交わりをたとうとしてねらっていた場所なのである。悪魔は彼のその交わりを自分の本来の敵と見なしている。なぜなら、イエスは言葉とわざとにおいて神の恩恵を現すベく召されたのであるが(2:14。その箇所参照)、悪魔のほうは人間に対する神の正しさを代理し、その審きの遂行に力をそえる者だからである((特にヨブ1:6以下参照)。それ故、イエスの試惑において究極的に問われているのは、神の恩恵に仕えるという彼の務めなのである。イエスはこの務めを確立するに当たって人間の反抗に出会っただけではない。彼の本当の敵は「告発者」にほかならない。それ故、悪魔がイエスによって退けられたとき、イエスに働く恩恵に正面から抵抗できるものはもはやないということも、明らかにされたのである。」(NTD新約聖書註解(3)  ルカによる福音書 P131 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハ 1:17)と語り、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:5)と語っている。勝利者イエスによって恵みの中に、恩寵の中に置かれていることに感謝しょう。

2023/8/3(木)担当 ラウジー満世師 創世記44:14-34 賛美 聖歌総合版529 聖歌591

 ベニヤミンの袋の口から盃が見つかり、兄弟はただただ驚いた。弁解出来ないことを知りつつも兄たちは弟が盗んだとは認めない。一方で「神が僕どもの罪を暴かれた。」(44:16)とようやくはっきり罪を告白した。ヨセフに再度対面した時、ユダがどうしても伝えなければならないことを語る。最初の訪問の時から今に至る経緯と、弟を連れ帰らない時の父の命の心配を語った。ユダは過去の罪が神に裁かれていることを受け止めつつ、その罪の結果長い間苦しんでいる父にこれ以上苦しみを与えてはいけない、父の苦悶をこれ以上見ていられないから罪を自分で負う、と断言した。

 一連の出来事の中で神の迫りを受け止め、告白したことと、罪の結果として父を苦しめている責任を負う兄の中に、ヨセフは心からの罪の承認と悔い改めを見た。ぎりぎりの攻防により両者の心が揺り動かされる。罪の赦し、関係の回復のためには表面的に赦したふりをして丸く収めるだけでは事足りない。御言葉から学び、祈りの葛藤の中で、相手と真摯に向き合い、本当の悔い改めと真実の赦しを経なければならない。

2023/8/4(金) 担当 高谷清師 ルカ4:3-4 賛美 聖歌(総)250 聖歌 273

 この箇所には第一の誘惑が記されている。誘惑はイエスが40日間の断食によって空腹を覚えられている時にやって来た。悪魔は空腹を覚えておられるイエスに「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と語りかけた。神の子イエスに自分の空腹を満たすために、自分の命を保つために神の子としての「全能」を用いよと言うものであった。これに対してイエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。申命記には「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 8:3)と記されている。この箇所についてK. H. レングストルフは

「申命記八章3節の言葉は、すべての生命が神の言葉から出て(創1:3以下)、ただ神によってだけ保持されるということを言明している。それ故、神と交わり神の言葉を所有する者にとっては、生命を保持するのに必要なのは自分の力でパンを獲得することではなく、その養いに要するものを神の手から受け取ることであり、またそれ以外にはなし得ないのである。それは「主の祈り」の、ルカによれば三番目に置かれているパンを求める祈り(11:3)が示す信頼である。イエスは、そこに示される神への無限の信頼によって、ご自身が神の子であることを証明された。それは決して石をパンに変えたり、神の創造の力を自分のものとするような奇跡によってではない。これは奇跡そのものを否定するのではなく、ただ自分のためにそれを用いることを否定するのである。このことは、イエスの活動全体をつらぬく、はっきりした線である。」(NTD新約聖書註解(3)  ルカによる福音書 P131-132 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。これは今後、本福音書を読み進めていくにあたって、また私たちの祈り、信仰生活の枠組みである。

2023/8/5(土) 担当 高谷清師 ルカ4:3-4  賛美 聖歌(総)518 聖歌 500  イエスは悪魔の語りかけに対して神の言葉、御言葉をもって応えられた。ヘブライ人への手紙の記者は「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブル 4:12)と記している。また、パウロはエフェソ教会に宛てた手紙において「また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェ 6:17)と記している。実に、神の言葉は生きており、力があり、美辞麗句を並べる者の心の奥底までも見分けることができるのである。私たちは言葉巧みに悪に誘惑する者に打ち勝ち、真理から迷い出ることが無いように、日々御言葉に親しみ、聖霊の導きを求め、御言葉の正しい解釈を得て真理の内を歩もう。