≪デボーションの友≫2023/9/11-16
- 2023.09.11
- ディボーションの友
2023/9/11(月) 担当 高谷清師 ルカ5:1-11 賛美 聖歌(総)250 聖歌 273
ルカは「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」と記している。当時、安息日ごとに会堂において礼拝の時がもたれ、律法の書が朗読され、ファリサイ人や律法学者たちが教えていた。しかし、律法は罪を明らかにし、死を宣告するが、罪の赦しと命を与えることはできない。マタイは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタ9:35-36)と記している。群集は“霊”の力に満ちて教えられるイエスこそ、命を与えるお方であることを感じ取ってイエスのもとに押し寄せて来たのである。今日、聖霊の恵みに与っている私たちは主との深い交わりを絶やすこと無く、いのちの言葉を証しする者でありたい。
2023/9/12(火)担当 ラウジー満世師 創世記47:1-6 賛美 聖歌総合版504 聖歌486
家族をエジプトに迎えたヨセフはファラオに家族を引き合わせるため、周到に準備する。問答集を準備したり、ファラオに会う兄弟を選んだり、細心の注意を払っている。それは家族を牧畜に適した土地に住まわせる許可を得るための備えであった。エジプトの高官として取り立てられているヨセフですら、緊張してファラオの前に出たであろう様子が伝わってくる。実際の家族とファラオとの面会において、ファラオは彼らの要求を聞き、牧畜に適したゴジェンの地に住む許可を与え、さらに有能な者を取り立てることまで提案した。
このファラオの示した好意は、ヨセフの周到な準備だけによるものではないだろう。長い年月をかけて神の信仰に立って与えられた環境でへりくだって歩んできたヨセフの信仰のゆえであろう。一時は牢に入れられるほどの立場で苦労したヨセフであったが、あきらめず神を愛して信仰に立つとき、神の恵みはこの一人の人物を通して愛する神にある兄弟姉妹に拡がっていく。神への愛と忠実を大切にしよう
2023/9/13(水) 担当 高谷清師 ルカ5:4-5 賛美 聖歌 539
イエスは群集に話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。この言葉を聞いたシモンは戸惑った。シモンは安息日に会堂でイエスの権威ある言葉を聞いていた。しゅうとめの熱病を癒していただいた。しかし、漁に関しては、自分は専門家であり、その彼が夜通し苦労したが、何もとれなかったのである。しかも、今は漁に適した夜ではなく、昼間である。イエスは言わば素人である。シモンの内には葛藤があったであろう。しかし、シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、イエスの言葉に従った。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」それはシモンにとって信仰の決断であった。み言葉に対し、信仰によって従おう。
2023/9/14(木)担当 ラウジー満世師 創世記47:7-12 賛美 聖歌総合版614 聖歌578
ファラオはヨセフの家族との会見の中で父ヤコブと話す。ヤコブは生涯で経験した多くの苦しみのゆえにその命の日々が短くされるほどの試練と悩みの多い生涯を歩んだ。そして年老いた今、住み慣れた地を離れて、この飢饉のときにファラオに食物を求めなければならない立場であった。ファラオから見ると取るに足らない小さな存在であったにもかかわらず、ヤコブは「ファラオに祝福の言葉を述べた」(47:7)。つまりかつてアブラハムを召した神がアブラハムを通して全世界が祝福に入ると言われた約束の一部がこのエジプトの地での祝福の言葉によって実現しているのだ。
小さな民を用いて神は当時の大帝国エジプトのファラオをも祝福される。神の祝福は民族の大きさや置かれた境遇の力関係によって制限されるものではない。神が祝福しようとなさる所へ、神の民の真実な信仰と神への服従を通して広がっていくものである。私たちも神の祝福を拡げていくために用いられたい。そのために今日も主の前にへりくだって主を愛して仕えよう。
2023/9/15(金) 担当 高谷清師 ルカ5:6-9 賛美 聖歌(総)631 聖歌 593
信仰による服従は予想もしない祝福をもたらした。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。この箇所についてK. H. レングストルフは
「新約聖書が「罪人」というのは、一般的な罪の状態についてではなく、全く具体的に表現されるような仕方で神の意志にそむいたこと、あるいは現にそむいていることを指すのである。その神の意志は十戒の中に知られ、従ってまた「罪人」と律法にそむく者、「義人」と律法を守る者も同じく十戒の中に知られる(5:32とその平行記事、ヤコ2:8以下)。このようなわけで、ベテロは自分が神の戒めに違反する者であることを告白した。しかしそのとき彼は、イエスの悔い改めの言葉のもとにくず折れたのではなく、むしろあわれみの言葉の前に立ったのである。イエスはここで、神の恩恵は義人にだけ与えられるというユダヤ教の大原則を突きくずした。イエスの祝福は、決して義人ではなく、自らも義人でないと思っている人に対して与えられる。」(NTD新約聖書註解(3) ルカによる福音書 P153 NTD新約聖書註解刊行会1976)
と記している。ファリサイ派の人と徴税人の祈りについて教えられたイエスは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14)と語っておられる。自らを低くして歩もう。
2023/9/16(土) 担当 高谷清師 ルカ5:10-11 賛美 聖歌(総)617 聖歌 580
シモンの罪の告白を聞かれたイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と語られる。今までは漁師として魚をとっていたが、これからは神の国のために人々を集める者、神の国のために主と共に働く者として召されたのである。主の召しに預かった一同は舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
主は御心に従って働き人を召し給う。人は自分の将来について夢と希望を持ち、そのために計画を持ち、それに向って邁進しているかもしれない。そうであれば、それはまことに美しく尊いものである。しかし、主の召しがあれば人の計画はすべてそこで中断する。自分の意志で選び取る人生から主の御心に導かれ、従う人生へと転換するのである。それは苦難に満ちながらも、祝福に溢れた道であり、直ちに従うべき道である。
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