≪デボーションの友≫2023/9/18-23

2023/9/18(月) 担当 高谷清師 ルカ5:12-16  賛美 聖歌(総)276 聖歌 295

 この箇所は表題のとおり「重い皮膚病を患っている人の癒し」として知られている箇所である。重い皮膚病を患っている人に関して旧約聖書は「イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。男女とも、必ず宿営から出しなさい。わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。」(民5:2-3)、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ13:45-46)と記している。重い皮膚病に罹った人は、イスラエル社会から追放され、神との交わりを断たれ、死を生きることを余儀なくされた。重い皮膚病を患っている人がイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。この行為についてK. H. レングストルフは

「病人がこの振る舞いによってあらわしたものは、むしろ主人に対して示すような尊敬と信頼である。しかも、彼の嘆願はそれ以上に彼の信仰をあらわしている。すなわち、イエスが自分をいやしてくださることができるとしても、それを欲するかどうかは全くイエスの側にある、という信仰である。」(NTD新約聖書註解(3)  ルカによる福音書 P156 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ロマ 10:9)と記している。イエスは癒す力をお持ちである。しかし、癒す力を持っておられることと癒されることとは別である。それはイエスの主権に属する。イエスは救い主であられ、癒し主であられ、私たちのすべての必要を満たすことのおできになるお方であられ、善なるお方であられ、愛であられる。そしてイエスは主である。このお方に全き信仰をもって従おう。

2023/9/19(火)担当 ラウジー満世師 創世記47:13-26 賛美 聖歌総合版408 聖歌408

 ヨセフの父と兄弟の一族がエジプトに移住してからも激しい飢饉は続いた。世界中で食物が不足してエジプトにやってきた。食料が蓄えられていたエジプトではヨセフが食料を管理し、一切を取り仕切っていた。家族が移住してからもエジプトの高官として働いた。エジプトでは人々も祭司の所有以外の土地も王の所有となった人々は王から土地を借りて作物を育てるという形が整った。

 家族がエジプトに来てからも神は変わりなくヨセフを祝福された。ヨセフには大きな権限が認められ、王のようにすべてを取り仕切っている。大きな祝福の中では同時に神の前で神に頼って生きることを忘れてしまう誘惑とも隣り合わせである。祝福を受ける時こそ恵みの源である神を覚え、感謝し、賛美し、謙遜に歩もう。

2023/9/20(水) 担当 高谷清師 ルカ5:12-13  賛美 聖歌(総)538 聖歌 520

 K. H. レングストルフは言葉をつないで

「律法学者たちの問では、重い皮膚病は神がくだした罰であると考えられ、そのためいやしには悔い改めと罪の赦しが不可欠の条件であると見なされていたのである。しかしここでは悔い改めのことも、罪の赦しのことも言われていない。イエスはメシアであり、罪の負い目と、重い皮膚病を含むあらゆる病気と、さらにまた死をも取り除き給う方なのである。」(NTD新約聖書註解(3)  ルカによる福音書 P156 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハ 1:7)と記している。

2023/9/21(木)担当 ラウジー満世師 創世記47:27-31 賛美 聖歌総合版500 聖歌482

 ここから48章の終わりまで、族長ヤコブの死をめぐる一連の出来事が記されている。ここではヤコブが悲しみの内に死を迎えるのか、平安の内に死ぬことが出来るかが問われている。死が近づいたヤコブの願いはエジプトではなく先祖たちの墓に葬ってほしいということであった。ヤコブにとってエジプトはなじみのない異郷であったが、それ以上にヤコブもまたアブラハムから続く民の約束の内に生きてきた族長であったので、ヤコブにとっては神の約束の地に葬られることが重要なことであった。ヤコブは切実な願いを、それを実現する力を持っているヨセフに訴える。ヨセフの約束の言葉だけでは安心がなかったのであろうか、ヤコブはヨセフに必ずその願いを聞き届けると誓いを立てさせる。神の約束の内に生きたヤコブも人生の終わりは異郷で迎えた。しかし、どこにいてもヤコブの心の内には神の約束を信じて生きる姿勢があった。だからこそ彼は葬りの場所としてカナンの地を切望した。

 その時その時の状況は神の約束の場所から外れたところで展開することもあり得る。しかし信仰においては現実の出来事や場所に惑わされることなく常に神との固い交わりの中にいることを求めよう。

2023/9/22(金) 担当 高谷清師 ルカ5:14 賛美 聖歌(総)64 聖歌 118

 イエスは癒された人に対して厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」と。イエスは重い皮膚を癒された人に対し沈黙を命じられた。重い皮膚病から癒された者は、祭司が判定をくだし、病気の直った者が定められた供与え物を捧げることによってはじめて彼は清いと認められるからである。イエスは律法を放棄することはされなかった。イエスは「「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタ5:17-18)と語っておられる。また「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねる律法の専門家に対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ22:37-40)と語っておられる。イエスは律法の一点一画も廃棄されない。律法は愛によって完成される。

2023/9/23(土) 担当 高谷清師 ルカ5:15-16  賛美 聖歌(総)229 聖歌 253  イエスの著しいお働きはこの地方一帯に知れ渡り、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。イエスはその素晴らしいお働きの故に人々が御許に押し寄せてくる時にも、人里離れた所に退いて祈る時を欠かされなかった。ヨハネによる福音書においてイエスは「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(ヨハ  5:19)・「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハ 5:30)と語っておられる。神の御子であられるイエスは絶えず祈り、父なる神の御心を知り、父なる神のみ旨と御力を受けて働かれたのである。使徒たちは聖霊の注ぎを受け、御旨を知り、力に満たされ、主の働きを進めた。私たちも祈りによってみ旨を知り、力を授けられることによってのみ、主の御心を全うすることができる。常に謙って祈ろう。