≪デボーションの友≫2023/10/16-21
- 2023.10.15
- ディボーションの友
2023/10/16(月) 担当 高谷清師 ルカ6:1-5 賛美 聖歌(総)631 聖歌 593
ルカは「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。」と記している。私たち日本人感覚からするとファリサイ人・律法学者たちは窃盗行為を咎めたと考えるかもしれない。しかし、律法は「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申 23:26)と記しているのでそれはあたらない。ファリサイ人・律法学者たちが咎めたのは「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出20:10)記されている十戒の第四戒に違反したと考えたのである。ファリサイ人・律法学者たちについて10/6に引用させていただいた加藤常昭師の言葉を再び引用させていただきたい。師は
「ファリサイ派は聖潔な、信心深い、時流に媚びない、清貧に耐える人びとであった。汚れた人びととは交わることのない、祈りの深い、神のおきてに生きる人びとであった。今日の日本のプロテスタント教会の信徒たちは、まさにそのようなファリサイ派的特質に生きているということはないのか。私は伝道者として教会のなかに立ったとき、教会員のなかにあるしぶといほどのファリサイ派根性との困難な戦いをせざるを得ないと深く自覚した。説教者としての戦いのひとつは常にこれであった。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P160日本キリスト教団出版局2014)
と述べておられる。一見、立派な聖徒に見える人々の歩みと主イエスやその僕たちが徹底的に戦われなければならなかったのは何故であろうか。それは自己義の追求に対してである。パウロは「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(ガラ 5:4)と語っている。私たちも自己義追求に落ちていないだろうか。
2023/10/17(火)担当 ラウジー満世師 創世記48:17-19 賛美 聖歌総合版274 聖歌294
ヤコブがマナセとエフライムを祝福する時、手が交叉して置かれた。ヨセフは長男に右手を置いてほしいと願った。祝福の祈りにおいては右手の方がより大きな祝福を与えるとされていたからである。まさに今祝福を祈ろうとするヤコブを遮ってまで手の位置を訂正するように求めたヨセフに対して、ヤコブはただ「いや、わかっている。わたしの子よ、わたしには分かっている」(48:19)と答え、手の位置は戻さなかった。ヤコブ自身が若き日に兄を差し置いて祝福を受け継いだ。それにより多くの苦労を重ねてきたのだから、この交叉した祝福がマナセとエフライムの生涯に与える影響を誰よりも分かっていただろう。それでもヤコブは自分の意志によって兄と弟の祝福の大きさを訂正することが出来ないのである。
ヤコブは祝福を祈るという具体的な行為を行ったが、誰をどのように祝福するか決定するのは神ご自身である。信仰者として「なぜでしょう、それは違います」と訴えたいことも時には起こり、変更を願うだろう。しかし最終的に人には見通せないことを見ておられる神が主権をもって定められたことに、私たちは神への全幅の信頼に基づいて従うのである。
2023/10/18(水) 担当 高谷清師 ルカ6:1-5 賛美 聖歌(総)626 聖歌 588
聖徒義を追求しながら過ちに陥ったファリサイ人・律法学者たちの誤りは何であったのだろうか。パウロは「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(Ⅱコリ 3:6)と記している。文字とは律法の形式的適用である。イエスは「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」と語られた。また6:9ではファリサイ・律法学者たちに対して「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と語っておられる。橋谷英徳師は
「聖書を読むことにおいても、字句に拘泥するのではなく、キリストにこそ、集中したい。主イエスを見ないで聖書を学び、どんなに感激してもそれは無意味である。主ご自身が、「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ五・三九)と言われたとおりである。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P174日本キリスト教団出版局2014)
と述べておられる。常にキリストご自身に目を注ぎつつ歩もう。
2023/10/19(木)担当 ラウジー満世師 創世記48:17-19 賛美 聖歌総合版504 聖歌486
再びこの箇所を読む。神は時折、本来ならこうあるべきという事とは異なるご計画を行われる。イスラエルにおいて兄ではなく弟が祝福を受け継いだ族長時代にもそれは起こった。またダビデが兄弟の末っ子であったにもかかわらず選ばれたことも人々の意表を突くことであった。神のご計画の中で生かされている私たちには簡単に理解、納得がいかない神の御心もある。しかしそれを受け入れることもまた私たちに神が求められる。信仰者はこのような時に、主の前に祈りながら、すべてを理解できなくても、主がなさることだから従います、と応答する。それは神が私たちを愛し、最善を計画してくださっており、全知全能の神が良いことを行われる方であると、聖書と信仰の歩みを通して知っているからである。
受け入れ難い主のご計画に従うことを求められる時、それを喜んで受け入れることが出来るよう、祈ろう。そして祈りの内に主に従う決心をしよう。
2023/10/20(金) 担当 高谷清師 ルカ6:1-5 賛美 聖歌(総)413 聖歌 413
イエスはファリサイ派の人と徴税人の祈りについて「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:10-14)と教えておられる。ファリサイ派人は律法を遵守し、その功績によって神の義を獲得しようとした。彼らはそれによって疲れ果て、裁きあう者となった。そのような彼らを主は招かれる「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタ11:28-30)と。一切を捨てて主に従おう。そこに安らぎと喜びがある。
2023/10/21(土) 担当 高谷清師 ルカ6:1-5 賛美 聖歌(総)519 聖歌 501 イエスは「人の子は安息日の主である。」と語られる。神はヤコブを召し、ご自分の民イスラエルとされた。エジプトの奴隷となった民を、モーセをたてて奴隷の地エジプトから導き出し、荒野において神の民として守るべき律法を与え、安息日を定められた。時満ちて約束の御子イエスを地上にお送りくださった。それ故、イエスは神であられる、すなわち、「安息日の主」であられる。パウロは「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」(Ⅱコリ 1:20)と語っている。更に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ロマ10:9-10)と語っている。信仰により、聖霊に満たされ「イエスは主である」と告白しつつ、信仰生活を全うしょう。
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