≪デボーションの友≫2023/11/13-18
- 2023.11.12
- ディボーションの友
感謝と御報告
この度、頚椎ヘルニア症治療のため入院し、二週間休載いたしましたことをお詫びいたします。主の慈しみと憐れみによって復帰出来ましたことを感謝いたします。お祈り頂きました皆様方に心よりお礼申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。
高谷 清
2023/11/13(月) 担当 高谷清師 ルカ1:26-38 賛美 聖歌(総)538 聖歌 520
新共同訳聖書はこの箇所に「イエスの誕生が予告される」と言う表題を付している。神は約束された救い主を世に遣わすにあたって天使ガブリエルをダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリアのところに遣わされた。主は預言者ナタンを通してダビデに対し「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下7:12-16)と約束された。マリアはヨセフと婚約することによって王家に属するものとなっていた。
前述のようにダビデ家に属する者、王家に属するものには神の約束が与えられていた。しかしその約束から数百年、ヨセフはダビデ家に属する者、王家に属するものとはいえ寒村の一大工であった。神の約束は非現実的のものと思われたかもしれない。しかし、神の約束はいかなる人間的状況の中においてもむなしくなることは無いのである。パウロはアブラハムについて「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」(ロマ 4:19)と語っている。与えられた信仰に固く立って歩もう・
2023/11/14(火)担当 ラウジー満世師 創世記49:5-7 賛美 聖歌総合版623 聖歌594
シメオンとレビへの言葉が語られる。彼らの暴虐について述べられているが、おそらく34章にある、妹が受けた暴力に対する復讐において共に行動したことを指すのであろう。この49章ではシメオンとレビの行動そのものよりも彼らを徹底的な復讐へと駆り立てた、二人の激しい怒りについて呪われている。シメオンとレビが復讐を果たすためにとった行動が直接非難されているのではなく、限度を超えた激しい怒りが問題とされている。たとえ被害に遭ったとしても、それに対して怒りの感情に任せて復讐すれば、それは復讐する側の罪となる。人には怒りの感情がある。しかし怒りを覚える時、それを直接、報復行動に移してはならない。怒るときにもその怒りを主の前に訴え、主に裁きをゆだね、自分自身の怒りについて、神が取り扱ってくださるように求めることが大切である。
怒りにおいて人はしばしば罪を犯す。感情的になって失敗することは誰しも経験があるだろう。たとえ当然起こってくる怒りであっても、そのような時にはいったんすべてを主の御手に委ね、聖霊によって心を取り扱っていただき、怒りの中で罪を犯さないように心をつかいたい。
2023/11/15(水) 担当 高谷清師 ルカ1:26-38 賛美 聖歌(総)276 聖歌 295
天使ガブリエルはマリアに語る「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この言葉に戸惑うマリアに対してガブリエルは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と続ける。私たちも「恵まれる」「主が共におられる。」と言う言葉を日常的に使う。そしてそれはその人にとって喜ばしいこと、平安をもたらすことが起こることを期待する。しかしマリアにとっては自分が神の子の母となることである。それは彼女に辛い思いをもたらした。シメオンは「――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ 2:35)と預言をしている。彼女はわが子のつけられた十字架の下に立たなければならなかった。
「恵まれる」「主が共におられる。」と言うことは肉なる自分にとって喜ばしいこと、平安をもたらすことが起こることではなく、自分を通して神の御心が成ることである。
2023/11/16(木)担当 ラウジー満世師 創世記49:8-12 賛美 聖歌総合版538 聖歌520
続いてユダへの言葉が記されている。他の兄弟に比べてとても長く、そして豊かな祝福が語られている。ユダへの言葉の冒頭から兄弟たちがひれ伏すと述べられているが、これは戦いに勝利したからであろう。後にダビデがユダから出るが、このユダに対して王笏や統治者という、王権に関することが述べられている。また後半にはぶどう酒についても述べられており、ユダを通して豊かな祝福が与えられることが示されている。
創世記を見ると、ユダの生涯も決して罪のない完璧ではなかった。しかし神はユダについては明確に祝福を語り、支配者が出ることを述べ、豊かな実りをも約束されている。神の目は遥か先まで見通し、神の御心とご計画に従った選びがあることを思わされる。主の御心とご計画を求め、従い、仕えていきたい。
2023/11/17(金) 担当 高谷清師 ルカ1:26-38 賛美 新聖歌18
ガブリエルの語りかけに対しマリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答える。当時のイスラエル社会においては婚約したものは夫婦とみなされていた。マリアはヨセフの妻として認められていたが、同居はしていなかった。夫婦の交わりなくして身ごもることはあり得なかったのである。これに対してガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」と語る。マリアの「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言う言葉は真実である。しかし、今マリアの胎に宿ろうとしておられるお方は聖霊によるのであり、生まれる子は聖なる者、神の子である。神にできないことは何一つないのである。神はわれらを越えて偉大なお方であられる。我らの思いを越えて偉大な業を行われる。我らは神の名を冠して主張される非常識を受け入れるべきではない。しかし聖霊による超常識は受け入れるべきである。
2023/11/18(土) 担当 高谷清師 ルカ1:26-38 賛美 聖歌(総)277 聖歌 296 ガブリエルの言葉を聞いたマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と語ってその言葉を受け入れた。これは実に重い信仰の決断であった。申命記は「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」(申22:23-24)と語っている。これはマリアの命を賭しての信仰の決断であった。マリアは「わたしは主のはしためです」と告白している。「主のはしため」とは自分を無にして、自分の生死さえも無にして唯主の御心のなるために従うことである。パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ロマ 10:9)と語り、「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(一コリ 12:3)と語っている。真の信仰とはイエスを利用する信仰ではなく、「わたしは主のはしためです」と告白する信仰であり、「イエスは主である」と告白する信仰である。それは聖霊によってのみ、与えられる。
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