≪デボーションの友≫2023/12/11-16

2023/12/11(月) 担当 高谷清師 ルカ2:1-7  賛美 聖歌(総)538 聖歌 520

 ルカは「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」と記している。ユダヤがバビロンによって滅ぼされた時、ユダヤの人々は捕囚としてバビロンに連れ去られた。その後、ペルシアの王キュロスによって捕囚が解かれ、民はユダヤの地に帰ってきた時、彼らはどの家族が住むか、を改めて定めた。その時に、ダピデの家筋の者たちはベツレヘムを、その町として定めた。この事からベツレヘムはダビデの町と呼ばれ、約束のメシアの出現の町と考えられていた。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ダビデの町ベツレヘムへ上って行ったのである。イエスこそ、約束の救い主であることを示すものである。

2023/12/12(火)担当 ラウジー満世師 創世記50:10-11 賛美 聖歌総合版492 聖歌475

 ヤコブの死後、大国エジプトによって荘厳な葬儀が執り行われた。ヤコブは神に選ばれたアブラハムの子孫であり、族長であった。神の約束を与えられた民として生涯を全うした。彼が死を迎えた時の状況は、飢饉を逃れるために先祖の地カナンから離れてエジプトに寄留していた一つの小民族に過ぎなかった。しかし生涯を通して神に従い続けたヤコブの葬儀が大国によってこれほど丁寧に行われたことに驚く。ヤコブの息子、ヨセフを通してエジプトのファラオや高官たちがイスラエルの神の力を感じていたことが伺われる。世の基準に基づけばエジプトは大帝国であり、イスラエルの民は寄留者にすぎなかった。しかし神の力は主に従うヤコブやヨセフのような信仰者を通して強い者にも示され、人は恐れを抱き、敬意を表す。

 世の基準による権力や成功がすべてではない。神は弱い者を通してご自身の力を示される。置かれた場所で主に誠実に仕え、主の栄光を表す器として用いられたい。

2023/12/13(水) 担当 高谷清師 ルカ2:1-7  賛美 聖歌(総)403 聖歌 403

 「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」と記されている。ユダヤ人にとって皇帝アウグストゥスは敵国の皇帝であった。登録の目的は、その土地に結びついた税金の約束をさせることであり、更に皇帝を王とし、忠誠を尽くすという誓いをさせることであった。それはユダヤ人にとってはまことに屈辱的な従順を強いられることであった。この事について加藤常昭師は

「イエスの父、そういう、いわば肩書きで登録を強いられたヨセフは、しかし、これに従順に従っている。これは、多くの人びとの心を捉えたことであります。主イエスは、このヨセフの子として生まれられたのです。しかも、今は赤ん坊だから我慢をしているというのではなくて、成人なさった後にも主イエスは、決して政治的な革命家にはならなかった。政治的な反逆者にはならなかったのです。もちろん、皇帝を神とはしません。皇帝を救い主とはしません。皇帝を王とはしません。王に対する王、救い主に対する救い主として、主イエスは自己主張なさいます。けれども、その自己主張は皇帝を倒すことにおいてではなく、このアウグスト、そして、それに続く皇帝たちの名によって殺されることによったのであります。皇帝を倒すことによってではなくて、皇帝によって倒されることによって、ご自分が王である道を貫かれたのであります。(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1P179ヨルダン社1995)」

と述べておられる。イエスは「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハ 12:24)と語っておられる。多くの人々が地上における事故の業績をアピールして栄誉を求める。しかし、それによっては実は結ばれない。

2023/12/14(木)担当 ラウジー満世師 創世記50:12-14 賛美 聖歌総合版513 聖歌495

 エジプト流の壮大な追悼の儀式の後、ヤコブは生前の言葉の通りに息子たちによってカナンの地へ運ばれ、所有するマクペラの畑に葬られた。生涯の終わりはエジプトの地で迎えたが、神の約束の地に葬られることは神の約束と守りが最後までヤコブと共にあったことを示す大切なことであった。ヤコブの生涯は常に人々との争いの中にあった。兄や伯父との対立の中、旅の途中で神と出会い、格闘し、ヤコブの信仰は成長していった。その後も最愛の息子を亡くしたという失意の中に何年もの時を過ごし、ようやく死の前になって息子に再会して、エジプトで死を迎えた。

 一人の人としては決して最初から立派で完全な人ではなかった。しかし苦難を通して神にすがり、神と向き合う中で信仰が成長し、埋葬において約束の地に葬られることによって神が生涯共に歩まれたことが示された。私たちも弱さや足りなさを持つ存在である。しかし主に向き合い、造り変えていただき、生涯を主と共に全うし、神が共に居て下さったと知る生涯となるよう、日々主を愛していこう。

2023/12/15(金) 担当 高谷清師 ルカ2:1-7  賛美 聖歌(総)636 聖歌 598

 加藤常昭師は

「王であるイエスの歩みを見失ってはならないと、私は竪く思っております。この王イエスの歩みを見続けること、イエスが王であり続けることを竪く信じ続けること、まずそれだけです。教会が世間にもてはやされたり、軽んぜられたり、そのたびに一喜一憂して生きることは愚かです。もちろん、そこで私どもはなお、言うべきことを言わなければいけないし、この世界がみこころに添うものになることを願い続けて生きる。しかし、それが私どものあせりの表れであったり、自己防衛の表現であったりすることは許されない。私どもは、自分で自分を守る必要はありません。ここに、このように、王としてお生まれになったイエスが、私どもの王であります。私どもが、どんな死に方をしようが、王であられることには変わりはない。そして、その王イエスをお立てになった神のみこころは成就するのであります。これは、遥かな、しかし、確かな見通しです。永遠につらなる見通しです。永遠につらなる望みであります。(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1Pヨルダン社1995)」

と述べておられる。パウロは愛弟子テモテに「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモ 4:2)と書き送っている。日本では戦後の時代には教会は世間の人々にもてはやされた。しかし日本の国力回復とともに人心は教会から離れて行った。最近はコロナ禍、旧統一教会問題などにより逆風が吹き荒れている。しかし「イエスは王であられることに変わりはない。確信をもって歩もう。

2023/12/16(土) 担当 高谷清師 ルカ2:1-7  賛美 聖歌(総)151 聖歌 196

 ルカは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記している。登録は出生地でしなければならなかったので、町は登録のために訪れた人々によって混雑し、宿屋は満室であった。ヨセフ夫妻はやっと見つけた家畜小屋に落ち着いた。その滞在中にマリアは初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。これは主イエスの生涯を象徴している。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ 9:58)と。世に生きる私たちは色々なことに気遣いをしなければならない。複雑化した現代社会においてはなお更である。主イエスはイエスを迎えてもてなしのためにせわしく立ち働くマルタに対して「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである(ルカ10:41-42)と語っておられる。一時、様々な事柄を離れ、命を得させる唯一の言葉に集中しよう。